江南駅周辺【2002年】

江南駅周辺は若者たちが集まる江南最大の通り!

こんにちは、ソウルナビです。今日は江南エリア最大の若者たちの通り、江南(カンナム)駅周辺にみなさんをご案内いたしましょう。ソウルの人には一般的に「江南(カンナム)」と言って通じるこの地域一帯は、行政区域上は江南大路(カンナムテロ:長さ6.9km、幅50m)という片側8車線の大きな道路を境に瑞草洞(ソチョドン・江南駅6番出口側)と駅三洞(ヨクサムドン・7番出口側)に分かれています。でもこれはただ地名が違うというだけの話。江南駅周辺は鴨鴎亭(アックジョン)のロデオ通り同様、若者たちで足の踏み場もないほどにぎわっている江南最大の通り!特に週末の夕方になると、まるでトンネ(町内)中の若者たちが江南駅で待ち合わせしているかのように集まり、活気にあふれています(^-^)。でも、この江南駅周辺・・・いつ頃から、どのようにして若者たちが集まる今のような通りに発展したんでしょうね(--a)?ではこれから江南駅周辺の変遷を、ナビがみなさんにくわしく説明していきましょう。
政府の開発計画に伴って画期的に変貌!
1970年代半ばに急激な都市化・産業化が進んだソウルでは、それまでの四大門(東西南北の大門)を中心とした江北(カンボッ・漢江)地域の開発が限界に達しつつありました。もともと地方にいた人々がソウルでひとやま当てようと大都市ソウルへと押し寄せ、ソウルはもうこれ以上地方から上京してくる人たちを受け入れることができないほどの人口超過密地帯となってしまったのです。このとき解決案として目を付けられたのがここ江南(カンナム・漢江の南側)地域!それまでの江南地域は大根・白菜を栽培する畑が広がる農村地帯。昔からソウルといえば漢江の北側地域のみで、それはおそらく漢江の北側と南側を結ぶ橋がなく往来が難しかったのも1つの原因だったんでしょう。いずれにしても江南地域は政府の開発計画に伴って画期的な転換期を迎えることになったのです。
地下鉄2号線の開通と江南大路がキーポイント!
江南地域へのアパート建設にあわせて1982年12月、地下鉄2号線第2期区間(総合運動場~教大間の5.5km)が開通、1984年5月には地下鉄2号線(環状線)の全線開通によって江南駅周辺が現在のような街に変貌する契機となりました。地下鉄2号線江南駅は1日利用者数15万人という玄関口となったからです。そして江南地域の人口が増えるのに合わせて1974年から駅の近くで営業をしていた「ニューヨーク製菓」店の前が若者たちの新しい待ち合わせスポットとなり始め、ここを中心に江南駅の商業圏は徐々に大きくなっていきました。また江北と江南を結ぶ漢南(ハナム)大橋から伸びる江南大路(カンナムデロ)が江南駅の上を通って南部の良才洞(ヤンジェドン)、郊外の京畿道城南(キョンギドソンナム)などに続き、都心の人口を江南地域に呼びよせる大きな役割をするようになりました。
京畿南部地域の拡大とテヘラン路形成によって巨大商業圏確立
1990年代、江南地域開発がさらに南側へと広がり、ソウル市の範囲を越え京畿道南部地域にまで拡大しました。盆唐(ブンダン)新都市に続いて竜仁(ヨンイン)、水原(スウォン)などにアパート団地、大学、工業団地などが建つようになり、1990年後半には江南駅の東西を軸とした道路、テヘラン路の周辺が韓国最大のベンチャーバレーかつ金融街かつ業務地区として発展しました。このようにして江南駅周辺はこれらの地域をつなぐキーポイントの役割を果たしながらソウル江南地域から京畿道南部地域まで含む巨大な商業圏へ発展し、そして現在も発展しつつあります(^^)v。
いかがでしたか?どうして江南駅周辺が現在のような華やかな通りになったのかご理解いただけましたでしょうか(^^)?その他にも江南駅周辺は水原、竜仁、天安(チョナン)など首都圏南部に点在する地方大学の通学バスの直結地でもあるため、自然と大学生が集まるようになり、またテヘラン路を中心としたオフィスタウンに勤める社会人たちで夜遅くまでにぎわうため、朝から夜遅くまで通りは活気であふれています。また最近、江南駅周辺に増えてきた外国語語学院や成形外科・皮膚科・眼科・などの専門医院を訪れる人々もこの通りのにぎわいに花を添えています。
以上、江南駅発展のきっかけとなった「ニューヨーク製菓」店の前で取材を終えて休憩中のソウルナビがお伝えしました。

上記の記事は取材時点の情報を元に作成しています。スポット(お店)の都合や現地事情により、現在とは記事の内容が異なる可能性がありますので、ご了承ください。

記事登録日:2002-12-03

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