韓国の山と民芸を愛し、「韓国人の心の中に生きた」日本人のお墓が眠る忘憂里公園墓地へ。
こんにちは、ソウルナビです。ソウルの地に眠り、現地の人の手で今も大切に保存されている日本人のお墓があることをご存知ですか?その日本人の名は浅川巧。日本統治時代に当時の朝鮮に渡り、朝鮮の民芸と陶芸、そして現地の人を愛し、朝鮮工芸と陶磁器の美に魅せられた日本人です。現在も景福宮の中に国立民俗博物館がありますが、なぜ元王宮の中に民俗関係の博物館があるのか不思議に思ったことはありませんか?この博物館の存在にも浅川巧がかかわっているのです。その日本と韓国の架け橋となった浅川巧が眠る共同墓地、忘憂里(マンウリ)公園墓地。自然も豊かで現地の人の散歩コースでもある共同墓地に、さっそくへ行ってみましょう。
◆◇浅川巧とはどんな人??◆◇
☆写真提供:浅川伯教・巧兄弟資料館
1891(明治24年)、山梨県で生まれ、1914(大正3)年、23歳で日本統治下の朝鮮に渡ります。朝鮮では林業技師として緑化事業につとめながら、兄である伯教の影響もあって朝鮮工芸の美に魅了され、「朝鮮白磁」をはじめとする工芸品や民芸品の収集や研究を行い、日本に紹介しました。また兄や朝鮮の芸術を愛した美学者の柳宗悦と共に景福宮内に「朝鮮民族美術館」を設立、朝鮮陶磁器や家具の収集と保全に尽力しました。この美術館は現在も同じ景福宮の中にある国立民俗博物館に引き継がれています。浅川巧は私生活でも現地のことを深く理解しようと日本統治下にありながら朝鮮語を学び、韓服を着て、現地の風俗や人に親しみ、周囲の人から敬愛されたそう。1931(昭和6)年、病気のため40歳という若さでこの世を去りましたが、生涯を朝鮮に尽くし、「韓国人の心の中に生きた」日本人として韓国でも知られています。そんな浅川巧の人生は2012年、映画「道~白磁の人~」として映画化されました。
◆◇忘憂里(マンウリ)公園墓地までの道のりは??◆◇
ソウルの東北部にある忘憂里(マンウリ)公園墓地。この共同墓地に浅川巧が眠るお墓があります。忘憂里公園墓地の最寄りの駅は清涼里駅から約10分の、京義中央線ヤンウォン(養源)駅。駅から墓地の入口まで歩いて約25分から30分。行き方は複雑ではないけれど、距離はけっこうあるので、暑い時期は水分補給を忘れずに。また寒い時は暖かい格好で向かいましょう。ヤンウォン駅周辺には学校、食堂、小さな商店があり、まるで地方都市のような雰囲気。ソウルにありながら、どこかプチ旅行にやって来た気分に。
階段を道なりにまっすぐ上がると
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忘憂里公園墓地の入口に到着します。
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墓地の入口周辺には駐車場や自動販売機、トイレ、簡素な休憩スペースがあります。公園墓地の中はとても広く、自動販売機やトイレはほとんどないため、こちらで水分補給用の飲み物を購入したり、お手洗を済ませておきましょう!
◆◇浅川巧のお墓がある忘憂里(マンウリ)公園墓地◆◇
公園と墓地が一体となった共同墓地、忘憂里公園墓地。こちらには韓国の独立運動家や著名人の墓地も多く、功績を記した石碑も建てられています。ちなみに韓国は土葬がメインで、墓地は土まんじゅうのような墓。日本のお墓とはかなり雰囲気が違います。墓地内は軽い坂も多いので、散歩をかねて運動をしに来ている人もたくさんいます。
墓地の入口から浅川巧のお墓までの行き方
正面入口を入ると道が2つにわかれていますが、左手にある道をまっすぐ、道なりに沿って直進します。入口からお墓までは約20分。それでは行ってみましょう!
<ポイント1:左の道へ>
正面入口で、二手にわかれた道のうち、左の道を直進します。
<ポイント2、目印の人形> 約10分歩くと最初の目印である人形が左手に見えてきます。
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人形を左に見ながら直進します。
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<ポイント3、3つのベンチ> さらに約10分歩くと、目の前にベンチが3つ、並んでいるのが見えます。1
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1つめの、背もたれのあるベンチの前を通り過ぎます。
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2つめと3つめの背もたれのないベンチの間の右手に
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浅川巧のお墓に向かう階段があります。
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・・・お墓に向かう途中には・・・
◆◇韓国の土となった浅川巧のお墓◆◇
石造りの階段を上ると、浅川巧のお墓が見えます。このお墓はソウル市が芝生の植え替えや石の階段の整備を行っています。浅川巧は亡くなる前に「自分が亡くなったら朝鮮の土となりたい」との遺言を残し、遺言通り、韓国の地に埋葬されました。
墓碑銘には有名な言葉が。「韓国の山と民芸を愛し、韓国人の心の中に生きた日本人、ここ韓国の土となる」