昌慶宮

チャンギョングン 창경궁(사적 123호)
  • エリア: ソウル 大学路
  • ジャンル : 古宮(王宮)
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当時を今に伝える朝鮮王宮の正殿・国宝明政殿のある王宮!!

こんにちは、ソウルナビです。今日はソウル市内にある5大王宮の中で、1483(成宗14)年に創建され、現在は史跡123号に指定されている昌慶宮(チャンギョングン)をご紹介しましょう。もともと昌慶宮の場所には上王(王の座を譲り渡した先代の王)である太宗(テジョン・李氏朝鮮[李朝、韓国で言う朝鮮時代]第3代王、1367~1422、在位1400~1418)を住まわせるため、世宗大王(セジョンテワン・李朝第4代王、1397~1450、在位1418~1450)が1428年に建てた寿康宮(スガングン)。当初は先王・太宗が居住していたところでした。その後、太宗が崩御し、荒れ果てていたものを成宗(ソンジョン・李朝第9代王、1457~1494、在位1469~1494)が、王の祖母である貞熹王后(チョンヒワンフ:李朝第7代王・世祖[セジョ]のお妃)、生母昭恵王后(ソヘワンフ)、そして養母安順王后(アンスンワンフ:李朝第8代王・睿宗[イェジョン]の継妃)の3人の大妃(先王の后妃)を住まわせるために3棟の王宮を改築、拡張することにより、王宮としての威厳を備えていきました。またこの時に王宮の名前も寿康宮から昌慶宮に変わったとのこと!では今から昌慶宮についてもっとくわしく調べて見ましょう。
1483年、成宗の祖母、生母、養母の3人の大妃を住まわせるために創建された王宮!!
昌慶宮は前で説明したように、成宗14(1483)年、成宗の祖母、生母、それに養母を住まわせるために創建された王宮。亡くなった先王の婦人たちが、王宮内で王とともに住むことに気がねし、王宮の外での生活を希望したので、新しい宮殿を建てたのです。先王の夫人である大妃の住むところは、元来王宮内、王の寝殿のそばの裏(北東側)にあるのが原則でした。王室内の最年長者として、朝夕王の安否うかがいを受ける大妃や大王大妃が、王の寝殿および王妃の寝殿から近い距離に住むことのは当然でした。しかし、当時の事情は違っていました。 景福宮や昌徳宮にこれらの人々を迎えられればよかったのですが、景福宮は世祖の甥である端宗(タンジョン)が王位を不法に奪った場所であり、世祖の子孫はそこに住むのを心苦しく思っていました。 そのときに明政殿(ミョンジョンジョン)、文政殿(ムンジョンジョン)、通明殿(トンミョンジョン)を新たに建造され、王宮の姿を整えて新しく昌慶宮としての歴史がスタートすることになったわけです。
昌徳宮とともにに東闕と呼ばれ、1616(光海君8)年から李氏朝鮮王朝の中心舞台に!!
昌慶宮は、昌徳宮(チャンドックン)とともに景福宮(キョンボックン)の東側にある王宮という意味で東闕と呼ばれました。また、塀を境にして昌慶宮と昌徳宮は隣接しており、相互補完の関係にありました。昌慶宮の特色は、正門にあたる弘化門(ホンファムン)、中門にあたる明政門(ミョンジョンムン)、正殿にあたる明政殿が東向きなのに対して、内殿はほとんどが南向きに建てられていること。それに女性が多く住んでいるため、相対的に昌徳宮よりも内殿の建物の数が多かったということ。これは他の王宮ではあまり見られない特徴です。殿閣のほとんどは徐居正(ソ・コジョン)が名付け、正殿にあたる明政殿の棟上文は金宗直(キム・ジョンジク)がつけたとのこと。当時、昌慶宮には現在とは比べものにならないほどに大きく(2000間を越える殿閣など)、広い王宮であったと言われています。しかし創建当時の殿閣はすべて豊臣秀吉による文禄・慶長の役(韓国名壬辰倭乱[イムジンウェラン])の時に焼失し、1616(光海君8)年に再建されてからも火災が続き、そのたびに内殿が焼けたため、現在残っているのはほとんど壬申の乱の後に再建された明政殿をはじめとするその回廊と、その前門にあたる明政門、昌慶宮の正門にあたる弘化門などの外殿、及び1834(純祖34)年に再建された崇文堂(スンムンダン)・涵仁亭(ハミンジョン)・歓慶殿(ファンギョンジョン)・景春殿(キョンチュンジョン)・通明殿(トンミョンジョン)・養和堂(ヤンファジョン)・集福軒(チッポッコン)・迎春軒(ヨンチュノン)などの内殿になります。
3年間に及ぶ昌慶宮復元工事の末、1986年8月に往時の姿がよみがえる!!
昌徳宮は文禄・慶長の役(1592年)に全焼しましたが、1616(光海君8)年に再建されました。この時から昌慶宮は昌徳宮とともに景福宮に代わって李氏朝鮮王朝の中心舞台となり、昌慶宮では大小の歴史的な事件が途切れることなく起こりました。粛宗(スクチョン)の時代に起きた張禧嬪(チャンヒビン)とその一族が処刑された事件や、英祖(ヨンジョ)の時代に起きた思悼世子(サドセジャ)の死など、すべてここ昌慶宮がその舞台となりました。その後、日本の植民地時代直前の1909(純宗3)年、昌慶宮の殿閣は破壊され、ここに動物園や植物園がオープン。また1911年には博物館も設置、桜の木がたくさん移植され、一般の人のための休憩所となりました。また名称も昌慶宮から昌慶苑に変わるなど、王宮の格がガクンと下がった時期でもありました。その後、ソウル市民には長い間王宮というより公園として認識されてきましたが、1983年12月から3年間に及ぶ昌慶宮復元工事が行われ、動物園などの施設はソウル市郊外の果川(クァチョン)にあるソウル大公園に移され、1986年8月、ようやく往時の王宮の姿を取り戻すことになったわけです。
昌慶宮日本語無料ガイドの時間は毎日(火土を除く)午前10時からと午後3時から!!<2006.7.29>
ではこれから昌慶宮観覧を本格的に始めましょう。昌慶宮の正門である弘化門の右側に入場券売り場(メピョソ)がありますので、入場券を買った方から順に弘化門から中に入って行ってくださいね。弘化門を過ぎると右側にインフォメーションセンターがありますので、こちらで昌慶宮を観覧される前に案内パンフレットをもらってください。日本語無料ガイドをご希望の方は、毎日(昌慶宮の休館日である火曜日と土曜日を除く)午前10時と午後3時までに玉川橋(オクチョンギョ)の前に来て待っていれば、約30分、日本語で昌慶宮の中を案内してくださいます。さ~!では昌慶宮の観覧を始めましょう~(^-^)!と、ここで注意事項をひとこと!下記の順序は昌慶宮の案内図に表示されている番号と同じではありますが、観覧コースはみなさんの観覧の便宜上、昌慶宮の中にある案内図とは変えて編集していますのであらかじめご了承ください。
昌慶宮案内図
1.弘化門(ホンファムン):宝物(国宝と重要文化財の間)第384号。昌慶宮の正門。塀の左右に十字閣が置かれ、他の王宮の正門とは違って東向きに建てられています。1484(成宗15)年に建てられましたが、文禄・慶長の役の時に焼失、1616(光海君8)年に再建されたものが今日まで残っています。建物の規模は正面3間、側面2間で、右側にある階段で2階に上がっていくことができ、全体的に赤く、雄壮な感じがします。17世紀の木造建築の構造と形式をよく残しており、学術的価値も認められています。
2.玉川橋(オッチョンギョ):宝物第386号。15世紀石像美術の卓越した技術をうかがわせる玉川橋は、花崗岩で造られた長さ9.9m、幅6.6mの石の橋!王宮の中心にあたる建物である正殿に入っていくときには、風水に従って正殿の正門と王宮の正門の間に流れる明堂水(ミョンドス)を渡って入っていくように作られています。玉川橋はまさにその明堂水の上にかけられた橋で、昌慶宮創建当時の1483(成宗14)年に造られたものと推定されています。この石橋は虹の形と同じ半円形の造形物の上に長く整えた石が床になっています。また4個の石獣が置かれ、橋の南側と北側の両面に2個の鬼面が浮き彫りにされています。橋の床面には左右の道より幅が広く、少し高く作られた歩道があります。実はここは王様だけが通ることができる「御道」だったんですって!!
3.明政門(ミョンジョンムン):宝物第385号。弘化門から玉川橋を渡って明政殿へと至る昌慶宮の中門で、明政殿の正門にあたります。建物の大きさは正面3間、側面2間で、建物の両側は塀の役割をする行閣(ヘンガッ)へと続いています。行閣の東側には明政門が、南側には光政門(クァンジョンムン)、北側には永清門(ヨンチョンムン)があります。明政門は昌慶宮創建当時、1484(成宗15)年に建てられたものが文禄・慶長の役で焼失し、その後1616(光海君8)年に再度再建されたもの。南側及び北側の行閣の一部は日本の植民地時代に撤去されたものを1986年に復元されたものです。
4.明政殿(ミョンジョンジョン):国宝第226号。昌慶宮の法殿(ポッチョン)にあたり、王宮内で最高の殿閣とされています。また朝鮮時代の王宮内の建物がほとんど南向きに建てられているのに対し、明政殿だけは東向きに作られているのが特徴!明政殿を中心に明政殿の前の朝廷では即位式、朝賀の儀式、科挙の試験、各種宮中宴会など公式的な大きな行事がたくさん行われました。明政殿は現在残っている王宮の法殿のうちで最も古いもので、文禄・慶長の役で焼失していたものが1616(光海君8)年に再建されて、今日に至っています。
5.文政殿(ムンジョンジョン):王の執務室に該当する便殿(ピョンジョン)で、正面4間、側面3間、正殿である明政殿に比べて建築手法が簡潔で素朴です。昌慶宮の中心一郭がすべて東向きに建てられているのに対して、唯一文政殿のみが南を向いているのが特徴。また内部は他の殿閣とは違って開放されているので、御座や御座の後ろにある韓国で最も有名な景観の一つ、太陽と月、それに5つの山峰が描かれた「日月五岳屏」などを見ることができます。この文政殿も昌慶宮創建当時、1484(成宗15)年に建立されましたが、文禄・慶長の役で焼失。これも光海君の時に正殿である明政殿とともに再建されましたが、日本の植民地時代に昌慶苑として造成された段階で取り壊されました。現在の文政殿は1984年に始まった昌慶宮発掘作業を土台に1986年に再建されたものです。
6.崇文堂(スンムンダン):「朝鮮王朝実録(李朝第1代王・太祖から第25代王・哲宗まで25代472年の間の歴史を編年体でまとめた歴史書。国宝第151号)」によると、崇文堂という名前には「儒学を崇めて尊ぶこと」という意味が込められているとのこと。崇文堂は文字通り、王と臣下が学問や国史を論じる「経筵(キョンヨン:王の前で経書を講義する席)」に主に使われていた建物。建物の規模は正面4間、側面3間で、景宗(キョンジョン・李朝第20代王、1688~1724、在位1720~1724)のときに建てられました。その後1830年(純祖30年、純祖[スンジョ]・李朝第23代王、1790~1834)に大火で焼失したものがその年の秋に改築され、現在に至っています。崇文堂の扁額(文字や絵などを刻んで壁や紋の上に掲げる板)と「日監在茲」と描かれた掲板の文字は英祖(ヨンジョ・李朝第21代王、1694~1776、在位1724~1776)の手によるもの。英祖は特に学問を推奨し、秀才を養成しましたが、ここで自ら成均館の学生たちと接見、試験を行ったりもし、時には酒宴を設けて彼らを励ましたりもしたと言われています。
7.賓陽門(ピニャンムン):外殿と内殿の空間を連結する通路にある門。賓陽門の内側は王のプライベートな空間であったため、王の家族や特別な用務を除いて出入りが厳しくコントロールされていました。現在の賓陽門は日本の植民地時代に強制撤去されていたものを、1984年に始まった昌慶宮発掘作業で1986年再建したもの。
8.涵仁亭(ハミンジョン):正面3間、側面3間の平屋の建物で、大小の接見行事が行われたところ。英祖はここを文武科挙で壮元及第(主席合格)した人たちと接見する場として使用したといわれています。涵仁亭の内部には4個の扁額に「帰去来辞」を詠んだ詩人、陶淵明(中国東晋・宋代の詩人。365~427)の詩が掛けられています。五言絶句の形式で詠まれたこの詩は四季の妙味を詠んだもので、方向に合わせ季節ごとに掛けられています。ちなみに詩の内容は、「春水満四沢(東)−春の水はすべての池に満ち満ちて、夏雲多奇峰(南)−夏の雲は奇峰に多く、秋月揚明輝(西)−秋の月は空高く明るく輝き、冬嶺秀孤松(北)−冬の嶺に生うる松は美しい」です。
9.歓慶殿(ファンギョンジョン):昌慶宮の内殿の建物のうちの一つで、王が実際に生活していたところ。建物の規模は正面7間、側面4間。王の寝所とは言うものの王妃の寝殿である通明殿に比べて規模がこじんまりとしているのが特徴で、「朝鮮王朝実録」によると、中宗(チュンジョン・李朝第11代王、1488~1544、在位1506~1544)がここで崩御した後、第25代王である哲宗の代に至るまで、主に棺の安置場所などの用途に多く使われていたと言うことです。歓慶殿は1484(成宗15)年に建立され、文禄・慶長の役で焼失したものを1616(光海君8)年に再建、1624(仁祖2)年「李[イグァル]の乱」の時に再び焼失しましたが、すぐにまた再建されました。その後1830(純祖30)年の大火でまた焼失したものを1834(純祖34)年に再建し、今日に至っています。
10.景春殿(キョンチュンジョン):明政殿の後方にある内殿の建物の一つ。建物の規模は正面7間、側面4間で、八作屋根(韓国式家屋で最も多く使われる屋根の構造)の構造をとっています。成宗の時代、大妃のために建てられましたが、のちに王妃たちの住まいとして使用されていたところ。、また第22代王である正祖と第24代王である憲宗が誕生したところでもあり、成宗の生母である昭恵王后韓氏をはじめとして仁顕王后(インヒョンワンフ)閔氏、献敬王后(ホンギョンワンフ)洪氏が崩御した場所でもあります。景春殿の扁額は純祖の手によるもので、現在の建物は1834(純祖34)年に再建されたもの。また現在、昌徳宮に属している楽善斎(ナクソンジェ)とは公園でつながっています。
11.通明殿(トンミョンジョン):宝物第818号。昌慶宮の中宮殿(チュングンジョン)で内殿の殿閣の中で最も大きく、他の王宮同様屋根に棟の部分が無いのが特徴。建物の規模は正面7間、側面4間で、女性の生活空間らしく建物の周囲に花壇や池などを配し、華麗に飾られていました。昌慶宮創建時にあわせて建てられ、文禄・慶長の役(1592年)の際に焼失しましたが1616(光海君8)年に再建。再び「李[イグァル]の乱」と正祖の時に火災で焼失したものを1834(純祖34)年になって再建され、今日に至っています。扁額は純祖の親筆です。
12.養和堂(ヤンファダン):養和堂は正面8間、側面4間の規模の平屋建て。丙子胡乱(ピョンジャホラン・1636(仁祖14)年に清が侵入した乱)の際、当時の王であった仁祖(インジョ・李朝第16代王、1595~1649、在位1623~1649)は南漢山城に避難していましたが、翌年戻ってきてこちらに住んだこともあると言われています。昌慶宮の創建(1484年)とともに建てられましたが、文禄・慶長の役(1592年)や李[イグァル]の乱(1624年)、丙子胡乱で焼失、そのたびに再建されました。現在のは1830(純祖30)年に再び火事にあったものを1834年に再建したもの。また扁額は純祖(スンジョ)の親筆です。
13.迎春軒(ヨンチュノン)と集福軒(チッポッコン):養和堂の東側にあるこじんまりとした殿閣で、迎春軒は昌慶宮の内殿の建物、集福軒は迎春軒の西行閣です。迎春軒は李朝第22代王・正祖(チョンジョ)が過ごしたところで1800年6月28日ここで崩御し、集福軒は李朝後期の王室の歴史の主要人物である思悼世子(サドセジャ)と正祖の息子、純祖(スンジョ)が生まれたところでもあります。1830(純祖30)年に火災で焼失したものを4年後に再建し、2000年に改築された部分を解体・復元し、現在に至っています。
14.慈慶殿(ジャギョンジョン)趾:「宮闕志・李氏朝鮮時代の王宮について記録した本)」によると、慈慶殿は1777(正祖元)年、正祖の母で思悼世子の妃であった恵慶宮(ヘギョングン)洪氏のために建立されました。これは慈慶殿の向い側、ちょうど現在のソウル大学病院の場所に思悼世子の廟宮(お墓)である「景慕宮(キョンモグン)」があったからだとか。現在では空き地となっています。
15.風旗台(プンギデ):宝物第846号。1732(英祖8)年に作られたものと推定され、本体の一番上の穴に旗ざおをさし、その竿に旗をつけ「風の方向と速度」を測っていた気象観測器具です。花崗岩で作られており、全体の高さは228.1cm。
16.成宗胎室碑(ソンジョンテシルビ):李氏朝鮮時代の王宮では王孫が生まれるとその胎(胎盤やへその緒)をきれいに洗浄し、白磁でできたツボに入れて地勢のよいところに胎室を造りました。しかし成宗の胎室は王宮の中に胎室を設置できなかったため、京畿道は広州市(クァンジュシ)慶安面におかれたものが、日本の植民地時代にここにうつされた、と言われています。成宗は李朝第9代王で1469年、13歳の幼齢にて王位に就き、25年間在位し「経国大典(朝鮮時代の基本法典)」の発布、「東国輿地勝覧(李氏朝鮮時代の人文地理書)」の刊行など朝鮮時代の制度を整備し、また文物を奨励しました。また成宗の主な業績としては、昌慶宮を創建したことが挙げられます。成宗は世子宮で生まれ、景福宮で即位し、昌徳宮で崩御しました。陵墓はソウル市江南区にある宣陵(ソンヌン)です。
17.春塘池(チュンタンジ):もともと王自らが農業試験を行い、農政を指導した内農圃(ネノンポ・朝鮮時代宮中に納品するために栽培されていた野菜畑)があったところです。王宮の公園の奥深いところにこのような畑を作り、王が直接農政を見ていた、というのは李朝が国家経済の根幹を農業生産力に置いていたことを意味しています。1820年代に描かれた「東闕図」によると、この一帯には1個の池と11個の田圃が造成されていたことが確認できます。日本の植民地時代に春塘池が一つの大きな池として統合・造成されました。
18.昌慶宮八角七層石塔(チャンギョングン・パルガッチルチュンソッタッ):宝物第1119号。1470(成宗元)年に中国で作られたもので、日本の植民地時代の1911年、昌慶宮に李王家博物館を建立する際、商人から購入して造られたものです。
19.植物園(シンムルウォン):韓国最初の洋式温室。1907年、日本の植民地時代直前に昌慶宮が昌慶苑となり、春塘池とその一帯にも手が加えられ、植物園が造られました。設計は日本人の福羽逸人が行い、フランスの会社が施工しました。初めは大温室とドーム型の温室2個が建てられましたが朝鮮戦争で半壊、以後修理して使用していたものの、現在ではドーム型の温室は撤去され、大温室のみ現在まで残っています。主に南部地方の自生植物が展示されています。
20.観徳亭(クァンドッチョン):春塘池の東北側にある低い山のふもとにあり、王が矢を射ていた射亭。現在は立ち入りが制限されています。
21.月覲門(ウォルクンムン):李朝第22代王である正祖が彼の父、思悼世子の廟にあたる景慕宮にいつでも参拝できるように1779(正祖3)年、弘化門の北側の壁を取り壊して建られました。正祖が毎月1日景慕宮に参拝する時には必ずこの門を通って行ったため月覲門と名づけられました。これは景慕宮の日瞻門と通じるようにつけられた名前です。
22.宣仁門(ソニンムン):昌慶宮の正門である弘化門に沿って南側に下って行きながら眺めると宣仁門があります。宣仁門の以前の名前は瑞燐門(ソリンムン)。王世子が住む東宮の正門にあたり、朝廷の臣下たちがこの門から出入りしていたと言われています。昌慶宮創建(1484)とあわせて建立されましたが、文禄・慶長の役(1592年)と哲宗8(1857)年に焼失、高宗14(1877)年に再建されたものです。
23.観天台(クァンチョンデ):宝物第851号。1688(楽宗14)年に建てられた天文観測台で、高さが22mにもなる観測台の上の一隅に99cmの台を作り、その上に当時広く使用されていた天文観測器具、小簡儀を設置して天体の位置を観測、時間を測定していたといわれます。観天台はもともと昌徳宮の金虎門(クモムン)の外に建っていたものですが、日本の植民地時代に一度移築され、1970年代後半に再び現在の場所に移されました。
24.昌慶宮と宗廟をつなぐ連絡橋:昌慶宮と宗廟を往来できる連絡橋の通行時間は、3月から10月までは平日9時から17時まで、土曜日と日曜日と祝日は9時から18時まで、11月から2月は9時から16時30分までです。観覧終了1時間前までは昌慶宮と宗廟を行ったり来たりすることができます。もちろん無料!!(^-^)昌慶宮、宗廟のどちらかで観覧チケットを買えば両方の観覧が楽しめます。ちなみに!この連絡橋は1938年、京城部が発行した<京城土木事業概要>によると、日本の植民地時代に道路の計画が推進され、この連絡橋の下の道が通じたのですが、これには王宮の昌徳宮(チャンドックン)と宗廟の地脈を意図的に切断したという疑いがもたれているそうです。
25.集春門(チッチュンムン):昌慶宮東北側の塀に設置された宮門で、成均館の文廟を向かいに臨むところがあります。「東国輿地備考(ソウルを中心とした朝鮮の地理・制度・人文事項を記録した人文地理誌)」によると、この門は後苑の東門で、現在の成均館(ソンギュンクァン)大学にあたる太学(テハッ)の陸橋に最も近く、歴代の王が太学に出向く際にこの門を通って行ったと言われています。
以上、昌慶宮について詳しく調べてきました。昌慶宮の殿閣は日本の植民地時代に多数取り壊され、代わりに動物園と植物園、李王家博物館が建てられ、名前も昌慶苑と格下げされるなど王宮として受難の歴史を経てきました。きちんとした昔の王宮の姿は1983年12月から3年間に及ぶ昌慶宮復元工事を経て、1986年8月にようやく甦りました。現在、昌慶宮の中には朝鮮王宮正殿のうちで最も古い建築物である明政殿(国宝第226号)、美しい池を備えた内殿の通明殿(宝物第818号)、そして弘化門(宝物第384号)、玉川橋(宝物第386号)、明政門(宝物第385号)、観天台(宝物第851号)、風旗台(宝物第846号)、昌慶宮 八角七層石塔(宝物第1119号)など多数の貴重な文化財が残っています。これらの文化財は昌慶宮のいたるところに配置されていますのでみなさんはソウルナビの昌慶宮案内図を参考にして観覧してみてくださいね!!今まで昌慶宮の春塘池にいたソウルナビがお伝えしました。

記事登録日:2003-06-12


住所 〒110-360 ソウル市 鍾路区(チョンノグ) 臥龍洞(ワリョンドン)2−1
住所(韓国語) 서울시 종로구 와룡동 2-1 #110-360
電話番号 02-762-9515
営業時間 <3〜10月>9:00〜18:00(平日)/9:00〜19:00(土日・公休日)
<11〜2月>9:00〜17:30
※入場券は観覧終了1時間前まで販売
休業日 毎週火曜日(名節時期を除く)
料金 1,000ウォン(19〜64歳)/500ウォン(7〜18歳)
※6歳以下、65歳以上は無料
ホームページ cgg.cha.go.kr (韓国語、英語)
その他の情報 ※日本語ガイド案内(案内電話02-762-4868~9−内線4):毎日午前10時30分と午後1時30分、玉川橋の前からスタート。所要時間約1時間。土曜・祝日休(土曜日は案内奉仕員が韓国語で案内)。<2008.9.25>

※注意事項:指定場所以外では禁煙。酒・弁当・愛玩動物搬入禁止。ハトへのエサやり禁止(エサをやると習性上たくさんハトが集まり、木造建築物への被害が深刻だから)、その他観覧の雰囲気を損なう行為は禁止。

*日本語案内時間と休業日を更新しました<2006.7.29>
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