西五陵

ソオルン서오릉

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歴史ドラマにもたびたび登場する粛宗と王妃たちのお墓がここに!ソウル西部に位置する朝鮮王陵群

こんにちは!ソウルナビです。今日は2009年に世界遺産に指定された朝鮮王陵のひとつ、西五陵(ソオルン)についてご紹介しましょう。こちらはその名のごとく、漢陽(ハニャン、朝鮮時代のソウルの名称)の西に位置し、王や王妃のお墓など5つの陵が集まった王陵群のこと。特に歴史ドラマや映画にたびたび登場する朝鮮第9代王粛宗(スクジョン)の継妃であった禧嬪張氏(ヒビンジャンシ)と仁顕王后(イニョンワンフ)のお墓があることでもよく知られています。敷地面積は約55万坪とソウルの東にある同じ王陵の東九陵の次ぐ規模を誇る大きな王陵。また、ほかの王陵と同じように、観光スポット+自然あふれる公園となり、地元の人の運動&散歩コースにもなっていますョ。それではさっそく中へ行ってみましょう!

5つのヌン(陵)、2つのウォン(園)、1つのミョ(墓)あり

ソウル市のすぐ隣りにある高陽市(コヤンシ)に位置し、ソウルの中心部からは地下鉄やバスを乗り継いで約1時間ほどの場所にある王陵群。朝鮮時代、都には墓をつくることは身分に関係なく禁じられ、特に王陵は都から10里以上、100里以内につくることが原則とされていました。そのため、韓国の王陵はソウルと京畿道を中心に点在しています。ここ西五陵も京畿道に位置し、陵域内に5つの陵(敬陵、昌陵、明陵、翼陵、弘陵)と2つの園(順昌園、緩慶園)、そして1つの墓(大嬪墓)があります。ちなみに朝鮮王朝歴代の墓は全部で122基あり、そのうちわけは王と王妃の墓を表すヌン(陵)が42基、皇太子や皇太子妃、王の親族の墓を表すウォン(園)が14基、その他の王族のお墓を表すミョ(墓)が66基。王陵のうち2基は現在の北朝鮮にあります。数多くの侵略や混乱、戦争の歴史を持つ土地ながら、王陵は壊されることなく保存されています。また500年を越える王族一族の墓がここまで完全な形で残っているのは世界的にも珍しいとか。

王と一緒に安置されているのは正室とは限らない?

朝鮮王陵にはいくつかの型があります。 王と王妃が別々の場所に埋葬されている単陵(タンヌン)に、王と王妃が一つの墓に一緒に埋葬されている合葬陵(ハッジャンヌン)、そして陵号は同じながら、丁字閣(チョンジャカク=陵の祭事を行う丁字型に立てた家)を中心に左に王陵、右に王妃陵を配置する同原異岡陵(ドンウォンイガンヌン)、王と王妃の墓が並ぶ同原双陵(ドンウォンサンヌン)の4つ。西五陵にあるのは単陵が3基、同原異岡陵が2基、 同原双陵が1基。歴代の王は正室のほか継妃(2番めの正室)、第2継妃(3番目の正室)・・・と病気などの理由でなくなった場合に別の王妃たちもいるため、誰と一緒に埋葬されるかは基本的には王の意向に沿ったもの。王と正室が一緒に埋葬される場合もあれば、王が継妃に挟まれていたり、あるいは王が生前に王妃の隣りに埋められることを願ったのに別の場所に埋葬されるなど、王の意思が反映されないことも。

王様ごとに見てみよう!


<粛宗(スクジョン)>

西五陵には朝鮮第19代王粛宗と正室、継妃、側室を含め4人の女性の墓があります。その中で粛宗が選んだのは第1継妃(2番目の正室)の仁顕王后閔氏(インヒョンワンフ・ミンシ)。生前、粛宗の寵愛も受けられず、権力闘争の中で王妃を廃位され、その後復位したものの結局子宝に恵まれず、病気が悪化し世を去った悲運の仁顕王后。その彼女への罪滅ぼしのためか、粛宗は仁顕王后と一緒に安置されています。
明陵(ミョンヌン)
他の陵とは入口が違い、西五陵の観覧チケット売場の入口を背に、駐車場を越えたところにある明陵。だから見逃さないように注意!こちらには粛宗と第1継妃(2番目の正室)仁顕王后閔氏(イニョンワンフ・ミンシ)、そして第2継妃(3番目の正室)の仁元王后金氏(インウォンワンフ・キムシ)が一緒に安置されています。粛宗の墓を中心に、その右左に第1継妃、第2継妃の墓が並んでいますが、3つのお墓が均等に並んでいるのではなく、粛宗と仁顕王后の墓は同原双陵として王と王妃の墓が横に並び、仁元王后金氏はその左側、200m離れたところに単陵として安置され、別に陵号もなく、明陵に含まれている形になっています。

●翼陵(インヌン)
粛宗の正室、仁敬王后金氏(インギョンワンフ・キムシ)の墓。第2継妃の墓と同じく、単陵として単独の墓になっています。こちらは西五陵の中でももっとも高い位置にある墓。階段式の参道(チャムド=神聖な区域を表す紅箭門から丁字閣まで続く石畳の通り、左側に少し高めの神道があり、右側に王が通る御道がある)が特徴。

○大嬪墓(デビンミョ)
粛宗の4番目の継妃であり、朝鮮第20代王敬宗(キョンジョン)の母である禧嬪張氏(ヒビン・チャンシ)の墓。もともと京畿道広州に草葬(遺体を藁などで覆い一時的に埋葬すること)されていたものを1969年、こちらに移葬。絶世の美女であり、また多くのうわさや逸話を残した彼女のドラマチックな生涯を描いた映画やドラマは韓国では何度もつくられ、この大嬪墓を見学しにわざわざ西五陵に訪れる観光客も多いとか。ちなみに禧嬪張氏は王妃として息子も産み、その息子が王に即位したにもかかわらず、王陵の名の原則に反して王族の墓を意味する「ミョ」になっているのは罪人として薬を飲まされ亡くなったため。粛宗と仁顕王后の墓である明陵からもっとも離れたところにあります。
<徳宗(トクジョン)、礼宗(イェジョン)>

朝鮮第7代王世祖(セジョ)の長男である徳宗(1438-1457)と正室である昭恵王后韓氏(ソヘワンフ・ハンシ)の墓。西五陵が陵域として造成されるきっかけになりました。また徳宗の弟の墓もこちらにあります。
敬陵(キョンヌン)
徳宗と昭恵王后韓氏の墓。陵の形態としては同原異岡式ながら、一般的な王右妃左の並びではなく、反対の王左妃右になっているのが特徴。また王の陵は石物が一部省略されて少なく、王妃の陵は王陵としての形式を備えているも気になるところ。これは当時の制度によるもので、王である世宗が主張した陵制と葬儀の簡素化政策が徳宗の陵に適用され、さらに徳宗が王位に上がる前に亡くなり、墓を造成したときは追尊(死後に王に即位)する前だったので、一般的な王陵より簡単なつくりになっているとか。これに対し、王妃の昭恵王后は徳宗が追尊された後に亡くなり、王妃陵として造成されたため、王陵としての威厳が感じられます。

●昌陵(チャンヌン)
徳宗の弟で朝鮮第8代王礼宗と、その継妃である安順王后韓氏(アンスンワンフ・ハンシ)の墓。 こちらは同原異岡式になっています。
<英租(ヨンジョ)>

朝鮮第21代王英租本人の墓は京畿道の九里に位置する王陵群「東九陵(トングルン)」にありますが、英租の正室と側室の単陵はこちらの西五陵にあります。英租の正室である貞聖王后徐氏(ジョンソンワンフ・ソシ)の墓、弘陵に英租は王妃の隣りに自分が入る場所を空けておいたにもかかわらず、英祖は別の場所に埋葬されてしまい、現在も空いたままに。
●弘陵(ホンヌン)
英祖の正室である貞聖王后徐氏の墓。墓の右手の空いた敷地は先ほどもふれたように英祖が生前に自分の墓と決めていた場所。英祖は東九陵に継妃の貞純王后金氏(ジョンスンワンフ・キムシ)とともに埋葬され、貞聖王后はひとりさびしくこの弘陵を守リ続けています。母の身分が低くコンプレックスがあった英祖が婚礼を挙げたその日、王后の手をとり「なんとも美しい手だ」といったところ、王后は素直に「私が貴く育ったからです」と答えたため、これを自分の母親への侮辱と受け取った英祖は王妃を冷遇。しかし王妃に対する感謝の気持ちは生涯忘れず、王妃が亡くなったあと英祖は「王宮生活の43年いつも笑顔で迎えてくれ、王と王妃を大切にし、怠けることは一切なく、英租の母である淑嬪崔氏の墓を真心を込めて守ったことに対しありがたく思う」という長い行状を残したという話も。

○緩慶園(スギョンウォン)
英宗の側室であり思慞世子(サドセジャ)の母である暎嬪李氏(ヨンビン・イシ)の墓。
<明宗(ミョンジョン)>

●順昌園(スンチャンウォン)

第13代王明宗の長男、順懐世子(スンフェセジャ)と恭懷嬪尹氏(コンフェビン・ユンシ)の墓。
いかがでしたか?王陵はひとつひとつが大きく、また、それぞれの墓も離れているので、すべての墓を観てまわるのに1時間は見たほうがよいでしょう。さらにじっくり観てまわると、もうちょっとかかるかも。ここ西五陵には韓国の歴史ドラマにもよく出てくる王や妃の墓もあるので、親しみを感じる方もいらっしゃるのでは?また王陵の型や誰と一緒に埋められているかを見ていくと、生前の王と王妃、継妃、側室との関係が垣間見られ、また墓の形や位置との相関関係を見てみるとさらにおもしろいかも?ちなみに王陵は昔から風水から見てとても良い場所にあるとのこと。もしかしたらこの場所でパワーを得られるパワースポットかも!?以上、ソウルナビでした。

記事登録日:2015-01-15

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スポット登録日:2015-01-15

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