るみの仁川建物探検!

建築の門外漢、るみが仁川(インチョン)の建物をご案内!開港の歴史と文化の香りを求めて


こんにちは、ソウルナビのるみです!にわか建物好きがナビに帰ってまいりました!全国建物好きの皆さん、お待たせいたしました!(え、待ってない?)今回は仁川の建物をいくつかご紹介したいと思います。仁川には近代に関連する文化遺産がたくさんあります。開港地として新しい文化の入ってくる玄関口であり、日本や清国(中国)、共同租界(アメリカ、イギリス、ロシア、フランスなどの西洋諸国)に多くの外国人が住んでいたため、関連する文化遺産が多く残っています。それでは行ってみましょう!

出発は仁川駅から

地下鉄1号線、かつての京仁線の終着駅である仁川駅は1960年に竣工したもの。こぢんまりとしていて、寂れ感がいっぱいです。お隣りの東仁川駅の方が栄えていますが、仁川駅周辺は現在再開発中。2015年には新しく生まれ変わるそうです。駅を出ると中華街の門が。坂道の中華街をまずは通り抜け、自由公園方面へと向かいます。

1.仁川気象台

1904年に作られた測候所。韓国初の近代的な気象観測施設ということで歴史的に深い意味があります。日本統治時代はこの気象台から午砲という大砲で正午の時間を知らせていたという記録があります。丘の上にあり、仁川の海を一望できます。ちなみに横にある倉庫は、写真撮影禁止。
自由公園を通り抜けます。自由公園は1888年にできた公園。ちなみに初期は「各国公園」や「万国公園」、そして日本統治時代は「西公園」と呼ばれていました。マッカーサー像のある場所には仁川で大きな利益を上げたドイツ系貿易会社、世昌洋行の社員宿舎がありました。この世昌洋行は1884年の甲申事変で郵便制度がストップしてお蔵入りになった大韓帝国の切手を買い取り、ヨーロッパのコレクターに売ったという逸話を持つやり手です(笑)。それから自由公園には米韓修好100周年記念塔というモニュメントがあるのですが、ここにはイギリスの商人ジョンストンの別荘がありました。1905年に完工した、かなり豪華な4階建ての洋館だったそうです。1936年からは仁川閣という名前の日本の料亭にもなり、戦後は米軍将校寄宿舎にもなりましたが、仁川上陸作戦の際に破壊されてお化け屋敷と化し、この世から消え去ったそう。
自由公園

自由公園

マッカーサー像

マッカーサー像

2.済物浦倶楽部

仁川に住んでいた各国租界の外国人実力者たちが1891年、親睦交流を深めるためにクラブを発足させ、1901年に建物が完成。設計を担当した建築家はロシア人のサバティン(上海でも活躍していた彼の作品で有名なのがソウルの貞洞にあったソンタックホテル。ここは高宗を中心とした王室の西洋化の中心になった場所でした)。中に入ると1901年当時の香りそのままで、歴史の重さを感じられます。重厚なオークウッドの調度品で統一されたインテリアで、落ち着いた雰囲気が漂います。けれども展示物の中には、統一感を全く無視した世界各国の記念品が適当に並べられいるなど、そのギャップが面白い!仁川にあった近代建築のペーパークラフトの作品展示は見応えがあります。当時はビリヤード場やテニスコートなどもあったそう。1914年からは日本在郷軍人連合会の建物として「精芳閣」と呼ばれ、後に日本婦人会館にもなり、終戦後は米軍将校クラブ、市立博物館、文化院と様々な用途で使われてきた深~い歴史を持っています。
高貴なイメージ

高貴なイメージ

この入り口は後年新たに作られたものだそう

この入り口は後年新たに作られたものだそう

素敵なバーコーナーで一杯いきたいですね

素敵なバーコーナーで一杯いきたいですね

シックな調度品が高貴なイメージを演出

シックな調度品が高貴なイメージを演出

仁川の近代建築のペーパークラフト

仁川の近代建築のペーパークラフト

文化イベント、仏映画の上映があったそう

文化イベント、仏映画の上映があったそう

3.虹霓門(ホンイェムン)

勢力拡大を目指した日本が、自由公園のある応峰山に穴を開けて作ったトンネルです。当時、日本の租界エリアから工場地帯の萬石町(現在の萬石洞)方面に出るためのルート確保に苦心し、海岸線に沿った道作りより山に穴を開けることを選択。1908年に完工、その姿が虹に似ているからということで虹霓門と名付けられました。門は穴門とも呼ばれ、海への続くまっすぐな坂道は穴門通りと呼ばれました。設計と監督は日本、工事は中国も関与、労働力は当時朝鮮の人々で、完成まで3年かかったそう。以前はツタの葉に覆われていたのですが、すっかり取り除かれてすっきりしています。
このトンネルを海側から抜けると・・・建物や通りが。うーん、この街並みに懐かしさを覚えてしまうのはどうしてでしょう?断定はできませんし、裏付け作業も特にしてないですが、日本っぽいですね、本当。
再びトンネルをくぐり、今度は海の方へと向かいます。昔の家っぽい家が並びます。お金持ちの邸宅っぽいのもちらほらと見られます。

4.新浦洞

繁華街である新浦洞にやってきました。仁川の明洞とも呼ばれ、在来市場もあり、現在のファッション、文化の中心地でもあります。この町のあちこちに古い建物が見られます。そのビジュアルで有名な飲み屋さんも日本家屋では?ひし形の飾り窓。独特なカーブがそれっぽい建物。
ここでお腹がへってきました。牡蠣がごろごろ入ったチャンポンがおいしいとうわさの中華料理店『香園』に入ることに。ここは新浦洞公営駐車場前にある旧日鮮海運株式会社(現鮮光文化財団・番号4)のお隣りという立地です。ちなみに日鮮海運株式会社は1932年の建物で、4階建て規模の当時のものとして現存する建物としては仁川で唯一の物だそう。それともうひとつ、「香園」のすぐ目の前に新浦洞公営駐車場があるのですが、ここは広昌洋行という会社社屋があったところ。1902年、イギリス人ウォルター・ベネットが日本人と合資で日英貿易商会を作り、数年後ベネットが独占状態で経営、会社名を広昌洋行としました。上海を通してイギリスから輸入された綿織物の輸入で、利益を上げたとのこと。
絶品牡蠣チャンポンが楽しめる
「香園(ヒャンウォン)」

絶品牡蠣チャンポンが楽しめる 「香園(ヒャンウォン)」

旧日鮮海運株式会社

旧日鮮海運株式会社

それはさておきお店で牡蠣チャンポン(8000ウォン)を注文!写真だとわかりにくいですが3センチくらいのミニ牡蠣が30個以上ごろごろと入っています。きのこ類も歯ざわりがとってもよく驚きの連続!ボリュームたっぷりで大満足。

5.旧仁川郵便局

食後にコーヒーをいただいた後は、今度は道路を挟んで目の前の仁川郵便局へ。かつて本町通りと呼ばれたコーナーに建つ堂々とした建物です。1884年の4月、日本領事館は郵便業務を始めました。1896年には領事館内に仁川郵便局が設置され、1905年からは統監府通信管理局所属で大韓帝国の郵便業務も担当。そして1924年、この建物が建てられました。一見石造建物のように見えますが、レンガ造りの表面モルタル塗りです。張り出した正面入り口には花崗岩が用いられ、その異質さが印象的。白亜の体に赤レンガ色のラインが走り、心地よいアクセントになっています。業務を行っている場所は建物のほんの一部でした。いろいろ見たかったのに残念!

6.税関倉庫など

現在も使われているのか定かではありませんが、昔仁川税関のあった場所に、1910年代に日本人技術者によって作られた赤レンガの税関倉庫などが残っています。税関は昔海関と呼ばれ、仁川にはこの海関が資料によると4回建て替えられたとのこと。1代目は1883年、2代目は1900年前後に建てられ、設計はサバティンという説も。そして3代目が倉庫つきの税関ではないかと思います。ちなみに4代目は線路を渡った港の敷地内に1926年に作られたそう。倉庫は現在、新しい水仁線(水原-仁川)の鉄道建設工事のため解体の危機にありましたが、復元保存が決定したとの記事を見ました。横浜の赤レンガ倉庫のように生き返るといいですね。

7.沓洞聖堂(タプドンソンダン)


1897年、フランスのカトリック宣教師コスト神父の設計により作られた、カトリック教の教会(現在の建物は1937年、シザレー神父の設計で新たに建てられたもの)。1890年代に建てられた韓国の教会建築の中で、聖公会江華聖堂と並んで最も古い西洋風近代建築の一つとも言われています。三つの塔が上にすうっと伸びてゆくような気持ちのいい外観で、小高い丘の上に建っています。中に入ると一人の女性がお祈りをしていました。
新浦洞に戻って在来市場を軽く見学。新浦洞の市場は1890年の初頭、チョン・ホンテクら兄弟が初めて魚市場を開設したのが始まりで、農業に従事する華農と呼ばれた中国人がここで野菜市場を仕切っていました。日本統治時代には日本人商人の勢力が強まり、独占状態に。1927年に第一、第二日用品市場が開設され、戦後現在のような新浦洞在来市場が形成されたそうです。

8.内洞教会

坂をのぼって今度は内洞教会(番号8)へ。大韓聖公会仁川内洞教会は朝鮮開拓宣教師として1890年にやってきたチャールズ・ジョン・コルフェ主教が1891年9月、韓国で初めて作った聖公会の教会です。当時は聖ミカエル教会と呼ばれ、宣教活動が展開されました。教会はロシア公館や日本の赤十字病院として使われた過去も。また、同じ年の10月には、韓国初の西洋式病院である聖ロカ病院も同じ敷地内に建てられています。ここはコルフェ主教が、アメリカで出会ったランディス医師(彼も宣教師も兼業)と共に活動したところです。しかし1891年当時の建物は朝鮮戦争で消失、現在の建物は1956年に建てなおされたものです。
どっしりとした石造の教会

どっしりとした石造の教会

コルフェ神父とランディス医師の胸像が

コルフェ神父とランディス医師の胸像が

病院だった建物

病院だった建物

9.虹霓門(ホンイェムン)の日本家屋カフェ

再び虹霓門(ホンイェムン)に。トンネル上の陸橋へと続く階段があるのですが、その途中にピンク色の日本風家屋のカフェ「HISTORY」を発見。ひとまず休憩、と入ることにしました。
木そのものの形を生かした梁が印象的な落ち着いた店内。仁川の歴史ハガキや写真が壁にディスプレイされています。これは!とこちらのオーナーに聞いてみると、歴史建築を専門に勉強した文化解説士(歴史案内ガイド)の経歴を持つ方でした。
東ティモールのフェアトレードのコーヒーを出すこちらのカフェ、築70年以上の日本家屋をリモデリング。興味深いことに横四軒が昔一つの家だったらしく、お隣りと梁がつながっているんだそう。おいしいコーヒーをいただいた後『二軒先もカフェをやってるからのぞいてみたら?』と言われ、さっそく行ってみると・・・
カフェ「アミガ」のオーナーさんが梁や柱を見せてくれました。小さい時からずっとこの家に住んでいて、カフェにするにあたって天井をはがし、梁や柱を露出させたとのこと。オーナーによれば、ここは当時の日本人裁判所書記官の官舎だったんじゃないかとのお話でした。
すっきりとした店内

すっきりとした店内

日本のお菓子が!日本びいきが伝わってきます

日本のお菓子が!日本びいきが伝わってきます

4軒が昔ひとつだった??

4軒が昔ひとつだった??

10.アートプラットフォーム界隈

仁川市が開港期の近代建築物などを整備して作った「仁川アートプラットフォーム」。その歴史背景やコンセプトが横浜にある赤レンガ倉庫と似ている!まるで兄弟みたいですね。仁川文化財団が運営し、ギャラリー、公演スペース、教育スタジオ、そしてアーティストのためのアトリエなど複合文化芸術空間として活用されています。月ごとにプログラムが変わり、さまざまなイベントが行われたりしています。日本人居留地のメインストリートとも言える海岸町(現在は海岸洞)には大韓通運の倉庫、日本郵船株式会社仁川支店、郡廻漕店など海運業者が集まっていました。それらの建物が70年近くの時を経てアートな場所に変わったわけですが、赤レンガの建物がすっきりと並ぶ様は見ていて気持ちがいいですね。

11.川端倉庫

1942年、川端栄三郎という人が作った赤レンガ倉庫。アワヤ(?)という金物屋を営んでいたとか。総合会計士事務所として使われた後、現在は「アチムパダ」というお店が入っています。これ以上のことは、この倉庫に関する資料が全くなくわからない・・・(涙)。こんな立派な倉庫、しかも1945年の終戦までたった3年。川端氏が残って商売を続けたとは思えないし、中にあった物はどこへ行ってしまったのでしょう。ここに来るのはるみは2回目なのですが、お店はいつ開くのでしょうか、夕方からの営業でしょうか。中が気になります~

12.歴史文化通り

中華街の疎開地境界階段から伸びる歴史文化通りは日本の租界だったエリア。現在官洞と呼ばれる一帯の土地を手に入れた日本はここに日本領事館を置き、町の近代化を進めました。開化初期に348人に過ぎなかった日本人は日清戦争が終わる頃に急増、1890年末には約4,300人に達したそう。そのため租界地の拡大が急がれ、苦心の末に1898年、現在の海岸洞(先ほどもでてきた海岸町ですね)一帯の埋めたてることで土地を確保します。けれども日本人の増加は、結局共同租界や韓国人居住地まで広げることに。先ほどの虹霓門(ホンイェムン)の例がそう。歴史文化通りには日本の長屋風の家が立ち並び、仁川の代表的な近代建築を見ることができます。

旧日本第一銀行は1899年に日本から材料を持ってきて建てられたそう。左右対象のルネッサンス様式です。韓国初の近代金融機関は1876年6月に開設された日本第一銀行釜山支店とか。1883年の開港後、仁川に釜山支店の出張所として開設されましたが、1888年に仁川支店に格上げ、以降韓国銀行仁川支店(1909年)、朝鮮銀行仁川支店(1911年)と変わりました。現在は仁川開港博物館になっています。
ちっちゃいんですが、堂々とした姿

ちっちゃいんですが、堂々とした姿

美しい銀行建築のお手本のような内部

美しい銀行建築のお手本のような内部

元金庫

元金庫


第十八銀行は長崎に本店のあった銀行で、1890年に作られました。当時長崎の商人は上海に持ち込まれたイギリスの綿織物を朝鮮に輸出する仲介役をつとめ、莫大な利益をあげていました。その業務が増えるに伴い仁川に支店を出しました。1936年には朝鮮殖産銀行仁川支店となり、1954年に商工銀行と信託銀行が合併して発足した韓国興国銀行として使われたりもしました。外観は重厚な石造ですが、中に入ると木の構造が目を引く建物です。現在は仁川開港場近代建築展示館になっています。日本風の屋根を載せているのが特徴的です。

第五十八銀行は大阪に本店を置く銀行で、仁川支店は1892年に建てられました。朝鮮の政府の貨幣制度改革のために招聘されたのをきっかけに仁川に進出、貿易金融界で活躍しました。後に安田銀行に改編され、戦後は朝興銀行仁川支店、大韓赤十字社京畿道支社社屋、そして現在は料食業組合の事務所となり、中は見ることはできません。2階のバルコニーがとても優雅で、入り口の階段脇の流れるような装飾が目を引きます。正直、3つの銀行は思ったより小さくてびっくりしましたが、美しい建物です。

13.中区庁(旧日本領事館跡地)

この場所に1882年、日本の領事館が建てられました。2階建ての木造建築物は1910年から仁川府の庁舎に、そして現在の建物は1933年に新築されたもので、終戦後は仁川市庁舎として1985年から中区庁として使われています。こちら庁舎の前庭の地下に2~3メートルほどの高さの空間が見つかり、1900年代に建てられたと思われる地下石材が発見されたというニュースがありました。日本領事館の時のものか、現在の建物の時に作られたものかを調査している(2009年のニュースより)、とのことでした。

再び中華街へ

旧日本郵船株式会社や、今も華僑の方が住んでいるという租界境界階段脇の中華風の建物を眺め、再び中華街に入りました。租界境界階段とは1883年設定された日本租界と、1884年に作られた清国の租界を分ける境界線の役割をした階段のこと。自由公園へと向かう階段に中華風の石塔と、日本風の灯篭が配置されています。日本の中華街のように完全な観光地、レジャー化しておらず、静けさに包まれてはいるけれどもどこを見ても真っ赤というのが面白いですね。
旧日本郵船株式会社

旧日本郵船株式会社

清国と日本の租界境界を知らせる階段

清国と日本の租界境界を知らせる階段

目を引く中華風の建物

目を引く中華風の建物

中華なイメージですが、日本の中華街とはやはりちょっと違いますね

中華なイメージですが、日本の中華街とはやはりちょっと違いますね

くらくらするメニュー

くらくらするメニュー

リニューアルした共和春、チャジャンミョン博物館になる予定。

リニューアルした共和春、チャジャンミョン博物館になる予定。

まだまだたくさんあるのですが今回はここまで。外人墓地も行きたいし給水塔も見なくては・・日本人実力者の邸宅など・・・次回にまたレポートさせてくださいね。仁川は近代建築ツアーや近代の歴史文化ツアーなどのプログラムが非常に充実しています。仁川駅すぐ横の観光案内所でも近代文化にフォーカスを当てた日本語地図もあるので、是非参考にしてください!以上、ソウルナビのるみでした。

上記の記事は取材時点の情報を元に作成しています。スポット(お店)の都合や現地事情により、現在とは記事の内容が異なる可能性がありますので、ご了承ください。

記事登録日:2012-01-05

ページTOPへ▲

関連記事

大学路、近現代建築を歩いて見てまわる旅!

大学路、近現代建築を歩いて見てまわる旅!

ソウル一の演劇と芸術の街である大学路にも、なかなか見ごたえある近・現代建築が実はたくさんあるんです!

ソウルのモダン建物探検、パート6!

ソウルのモダン建物探検、パート6!

シリーズ第6回目!ソウルの古い建物をめぐる旅、今回は鉄道跡もたどってみました!

その他の記事を見る