景福宮
キョンボックン
경복궁
600年の歴史をそのままに伝える李朝時代の正宮・景福宮!ソウル市内の宮殿でナンバーワン!
こんにちは、ソウルナビです。今日はソウルの鍾路区(チョンノグ)世宗路(セジョンノ)にある李氏朝鮮時代の正宮、「景福宮(キョンボックン)」についてご紹介します。ソウル市内にある5大王宮の中でも12万6337坪(416,990?)と最も規模が大きく、また建築美に優れた宮殿と評価されるこの景福宮は、1395年(太祖4年)に創建され、現在は国の史跡第117号に指定されている古宮。また景福宮内には勤政殿(クンジョンジョン・国宝第223号)、慶会楼(キョンフェル・国宝第224号)、慈慶殿(チャギョンジョン・宝物第809号)、慈慶殿十長生煙突(シッチャンセンクルットッ・宝物第810号)、交泰殿峨嵋山煙突(キョテジョン・アミサンクルットッ・宝物第811号)、勤政門(クンジョンムン)と行閣(ヘンガッ・宝物第812号)、風旗台(プンギデ・宝物第847号)、敬天寺跡十重石塔(キョンチョンサジ・シッチュンソッタッ・国宝第86号)、法泉寺智光国師の玄妙塔(ポンチョンサ・ジグァングッサ・ヒョンモタッ・国宝第101号)などなど数多くの文化財(国宝7点、宝物−国宝と重要文化財の間11点)があります。また敷地内には国立古宮博物館と国立民俗博物館もあり、ソウルに来たら必ず行っておきたい場所ナンバーワン!それではさっそくナビと一緒に景福宮の観覧に出かけましょう!
1395年(太祖4年)に創建された李朝の正宮!!
まず景福宮についてくわしく説明しましょう。景福宮は1395年(太祖4年)創建された李氏朝鮮の正宮。易姓革命で1392年、朝鮮を建国した李成桂(イ・ソンゲ)とその支持者たちが首都遷都を決定し、即位から3年後の1395年、高麗の首都である開京(ケギョン・現在北朝鮮にある開城(ケソン)の旧名)から首都を漢陽(ハニャン、現在のソウルの旧名)に移す過程で造られた宮殿で、現在の青瓦台(チョンワデ・大統領官邸)のような機能をしていた李朝の心臓部でした。景福宮の「景福」は、「詩経」に出てくる言葉で、王とその子孫、すべての百姓が太平の御代の大きな幸せを得ることを願う、という意味だそうです。
まず景福宮についてくわしく説明しましょう。景福宮は1395年(太祖4年)創建された李氏朝鮮の正宮。易姓革命で1392年、朝鮮を建国した李成桂(イ・ソンゲ)とその支持者たちが首都遷都を決定し、即位から3年後の1395年、高麗の首都である開京(ケギョン・現在北朝鮮にある開城(ケソン)の旧名)から首都を漢陽(ハニャン、現在のソウルの旧名)に移す過程で造られた宮殿で、現在の青瓦台(チョンワデ・大統領官邸)のような機能をしていた李朝の心臓部でした。景福宮の「景福」は、「詩経」に出てくる言葉で、王とその子孫、すべての百姓が太平の御代の大きな幸せを得ることを願う、という意味だそうです。
景福宮は、南方に向かって建てられていますが、ここには王が農民たちを望みながら善政を行うという意味が込められています。また南方正面の中央に正門を建て、正門から一直線に線を引いた位置に重要な文化的建築が並んで建っています。すなわち正門である光化門(クァンファムンの後ろには中央門である興礼門(フンネムン)があり、またその後ろには勤政殿への出入門である勤政門(クンジョンムン)があります。さらにその後ろには正殿である勤政殿(クンジョンジョン)が建っており、勤政門の後ろは君主が国政を行う執務室である思政殿(サジョンジョン)です。
景福宮の背後には白岳山(ペックァッサン)がそびえ、また左側には宗廟、右側には社稷がそれぞれ位置していました。昔、古代中国の周で定められた宮城の様式にそのまま従い、礼にかなうように建てられたのです。しかしながら中国とは異なり、宮殿を市内の北方ではなく西方白岳山のふもとにおきました。 これは韓国人が重視している、自然に依拠して家を建てるという考えが反映したためです。山が多い韓国では人々は家を建てるとき、山の形態や水の流れを考慮し、家を建てる位置をきめました。風水地理は、このような考えを根拠づける理論でもあります。景福宮を建てる時にもこのような風水地理を考え、王宮を市内北方におかずにソウルの代表的な山である白岳山のふもとにおいたのです。
このように重要な建物が一線上に並んで建っているのは、整然とした秩序ある構成が宮城から見えるようにとの意図からです。ここまでは臣下たちが出入り可能なところでしたが、これより先は王と宮殿の中に住んでいる人しか入ることができない内殿でした。内殿の中心は、王の寝殿である康寧殿(カンニョンジョン)。康寧殿は王が休む場所ですが、この建物もまた他の建物と同一線上に並んで建っていることに変わりはありません。
復元工事は2025年に完了の予定!
景福宮は1592年(宣祖25年)、豊臣秀吉による壬辰倭乱(文禄・慶長の役)の戦火によって全焼するという悲運にみまわれ、それ以降、王宮としても不吉だという理由で273年もの間、再建されなかったそうです。しかし1865年(高宗2年)、興宣大院君(フンソンデウォングン)が再建に着手し、1868年(高宗5年)に創建当時の規模に復元。同年7月には高宗が昌徳宮(チャンドックン)からこの地に王宮を移しました。しかし1895年(高宗32年)、閔妃(ミンビ)が日本人の暴徒に殺害されるという事件があり、翌年2月に高宗皇帝がロシア公館に避難したことで景福宮は王宮としての運命を終えることになりました。
景福宮は1592年(宣祖25年)、豊臣秀吉による壬辰倭乱(文禄・慶長の役)の戦火によって全焼するという悲運にみまわれ、それ以降、王宮としても不吉だという理由で273年もの間、再建されなかったそうです。しかし1865年(高宗2年)、興宣大院君(フンソンデウォングン)が再建に着手し、1868年(高宗5年)に創建当時の規模に復元。同年7月には高宗が昌徳宮(チャンドックン)からこの地に王宮を移しました。しかし1895年(高宗32年)、閔妃(ミンビ)が日本人の暴徒に殺害されるという事件があり、翌年2月に高宗皇帝がロシア公館に避難したことで景福宮は王宮としての運命を終えることになりました。
そして1910年、日韓併合によって国権が強奪されるや、景福宮内にあった約200の殿閣のほとんどが壊され、慶会楼(キョンフェル)と勤政殿(クンジョンジョン)などの10棟のみが残り、日本が勤政殿の南側正面に朝鮮総督府庁舎を建てることによって、景福宮の景観は完全に破壊されてしまいました。日本の植民地から解放された後の1945年から朝鮮総督府は政府の中央庁舎、その後は国立博物館として使われていましたが、景福宮復元事業(1991年6月5日起工)に合わせて1996年11月14日に総督府の建物が完全に撤去されました。そして現在も少しずつ景福宮のもとの姿を取り戻すために復元工事の真っ最中。この復元工事は2025年!にようやく終わりを迎えるそう!復元の基準は景福宮が最後に完成した姿であった1868年時点で、その当時の姿を再現する予定です。
地下鉄3号線景福宮駅5番出口と連結!
それではこれから本格的に景福宮の観覧とまいりましょう!地下鉄3号線キョンボックン(景福宮・Gyeongbokgung:327)駅5番出口を出ると光化門(クァンファムン)と興礼門(フンレムン)の間に広~い広場が!心までもがパアーッと広がるような気分になります!(^-^) その広場の真ん中に券売所があるので、そこで観覧券を買います。興礼門(フンレムン)を入っていくと、いよいよ景福宮の観覧が始まります。ここでひとつ、この広場ではほぼ毎日(定休日除く)「李朝宮城門の開閉および守門将交代式」が行われています!(※開催時期は年によって異なります)
それではこれから本格的に景福宮の観覧とまいりましょう!地下鉄3号線キョンボックン(景福宮・Gyeongbokgung:327)駅5番出口を出ると光化門(クァンファムン)と興礼門(フンレムン)の間に広~い広場が!心までもがパアーッと広がるような気分になります!(^-^) その広場の真ん中に券売所があるので、そこで観覧券を買います。興礼門(フンレムン)を入っていくと、いよいよ景福宮の観覧が始まります。ここでひとつ、この広場ではほぼ毎日(定休日除く)「李朝宮城門の開閉および守門将交代式」が行われています!(※開催時期は年によって異なります)
日本語ガイドあり!
興礼門を入り永済橋(ヨンジェギョ)という橋を渡る前に右側を見ると、案内板があります。日本語の場合は毎日(景福宮の休館日である火曜日は除き)決まった時間にボランティアの方といっしょに景福宮を回り、くわしい説明を聞くことができます(くわしい時間は基本情報参照)。参加方法は、時間に合わせてガイド案内時間表のある場所に集まればそれでOK!さあ~それでは景福宮を見て回りましょう!!(^-^)おっとその前に!下の順序は地図に表示されている番号と一致していますが、進むコースは観覧しやすさを考慮して、景福宮内にある案内図とは少し変えて編集しています。
興礼門を入り永済橋(ヨンジェギョ)という橋を渡る前に右側を見ると、案内板があります。日本語の場合は毎日(景福宮の休館日である火曜日は除き)決まった時間にボランティアの方といっしょに景福宮を回り、くわしい説明を聞くことができます(くわしい時間は基本情報参照)。参加方法は、時間に合わせてガイド案内時間表のある場所に集まればそれでOK!さあ~それでは景福宮を見て回りましょう!!(^-^)おっとその前に!下の順序は地図に表示されている番号と一致していますが、進むコースは観覧しやすさを考慮して、景福宮内にある案内図とは少し変えて編集しています。
1.光化門(クァンファムン・Gwanghwamun):
1395年(太祖4年)に初めて建てられた光化門は、景福宮の正門で王室と国家の権威を象徴していた門です。日韓併合後の1927年、朝鮮総督府の建物が建てられたことによって解体され、現在の国立民俗博物館の入口のほうに移転しました。その後1950年、朝鮮戦争の時に焼失してしまいましたが、1968年2月、現在の位置に移動、復元されました。光化門は全体的に均衡と調和を成し、壮麗な外観を持つ最も優れた闕門(王宮の門)という評価を受けていてます。また「光化門」とハングルで書かれた看板の字は、朴正煕(パク・チョンヒ)元大統領が直接書いたものだそうです!
1395年(太祖4年)に初めて建てられた光化門は、景福宮の正門で王室と国家の権威を象徴していた門です。日韓併合後の1927年、朝鮮総督府の建物が建てられたことによって解体され、現在の国立民俗博物館の入口のほうに移転しました。その後1950年、朝鮮戦争の時に焼失してしまいましたが、1968年2月、現在の位置に移動、復元されました。光化門は全体的に均衡と調和を成し、壮麗な外観を持つ最も優れた闕門(王宮の門)という評価を受けていてます。また「光化門」とハングルで書かれた看板の字は、朴正煕(パク・チョンヒ)元大統領が直接書いたものだそうです!
2.興礼門(フンレムン・Heungremun):
光化門と勤政門(クンジョンムン)の南北の中心軸線上に位置する2階建ての建物で、1916年に朝鮮総督府が建てられたことにより、興礼門をはじめとする行閣などが撤去されました。そして、2001年10月、85年ぶりに興礼門と興礼門の周辺が復元され、昔の姿を取り戻しました。ちなみに李朝の正宮である景福宮には古代東洋の法制にしたがい、全部で3つの大門があるそうです。1つめが外側を代表する光化門、2つめが景福宮全体の大門である興礼門、そして3つめが朝礼が行われていた勤政殿の出入口である勤政門。ふだん宮殿の外から勤政殿に出入りする時は、光化門と興礼門、勤政門を通ることになります。また興礼門と勤政門にわたる空間は、王を護衛する兵器や軍事訓練を担当する近衛隊が配置された場所で、王の安全が最優先されていました。
光化門と勤政門(クンジョンムン)の南北の中心軸線上に位置する2階建ての建物で、1916年に朝鮮総督府が建てられたことにより、興礼門をはじめとする行閣などが撤去されました。そして、2001年10月、85年ぶりに興礼門と興礼門の周辺が復元され、昔の姿を取り戻しました。ちなみに李朝の正宮である景福宮には古代東洋の法制にしたがい、全部で3つの大門があるそうです。1つめが外側を代表する光化門、2つめが景福宮全体の大門である興礼門、そして3つめが朝礼が行われていた勤政殿の出入口である勤政門。ふだん宮殿の外から勤政殿に出入りする時は、光化門と興礼門、勤政門を通ることになります。また興礼門と勤政門にわたる空間は、王を護衛する兵器や軍事訓練を担当する近衛隊が配置された場所で、王の安全が最優先されていました。
3.永済橋(ヨンジェギョ・Yeongjegyo):
興礼門と勤政門の間に流れていた禁川(クンチョン)の上にかかっていた石橋で、1426年(世宗8年)に名前がつけられたといわれています。長さは13.3m、幅が10.3mの永済橋の真ん中には魚道があり、石橋の左右にある花崗石が積まれた護岸には4頭のヘテ(日本のこま犬のようなもので、善悪を見分けることのできる想像上の動物。獅子と似ているが頭の真ん中に角があり、宮殿の左右に石像がある)が立っており、とっても印象的です。
興礼門と勤政門の間に流れていた禁川(クンチョン)の上にかかっていた石橋で、1426年(世宗8年)に名前がつけられたといわれています。長さは13.3m、幅が10.3mの永済橋の真ん中には魚道があり、石橋の左右にある花崗石が積まれた護岸には4頭のヘテ(日本のこま犬のようなもので、善悪を見分けることのできる想像上の動物。獅子と似ているが頭の真ん中に角があり、宮殿の左右に石像がある)が立っており、とっても印象的です。
4.維和門(ユファムン・Yuhwamun):
興礼門を通り過ぎ、永済橋を渡って左側を見ると出入口がひとつありますが、ここが維和門。もともと維和門の外側には大臣が勤政殿などを出入りする以前、集まって国事を論議していた賓庁(ビンチョン)があり、宮殿の外にいた官員は光化門と興礼門、維和門を経て賓庁へ入っていったそうです。
興礼門を通り過ぎ、永済橋を渡って左側を見ると出入口がひとつありますが、ここが維和門。もともと維和門の外側には大臣が勤政殿などを出入りする以前、集まって国事を論議していた賓庁(ビンチョン)があり、宮殿の外にいた官員は光化門と興礼門、維和門を経て賓庁へ入っていったそうです。
5.勤政門(クンジョンムン・Geunjeongmun):
宝物第812号。景福宮の正殿である勤政殿の正門として、1867年(高宗4年)、勤政殿とともに建立されました。現存する李朝王宮の正殿正門のうち、唯一中層の建物として残っている門です。勤政門は国家の大行事がある時にのみ使用され、普段は門が閉じられていました。臣下は武班・文班の区別され、文班は東側の日華門(イルファムン)を、武班は西側の月華門(ウォルファムン)を使用していたそうです。
宝物第812号。景福宮の正殿である勤政殿の正門として、1867年(高宗4年)、勤政殿とともに建立されました。現存する李朝王宮の正殿正門のうち、唯一中層の建物として残っている門です。勤政門は国家の大行事がある時にのみ使用され、普段は門が閉じられていました。臣下は武班・文班の区別され、文班は東側の日華門(イルファムン)を、武班は西側の月華門(ウォルファムン)を使用していたそうです。
6.勤政殿(クンジョンジョン・Geunjeongmun):
国宝第223号。勤政殿は景福宮の正殿として当時、宮殿の正殿の建物の中では最も大きく、多包様式の建物で現存する最大の木造建築物です。勤政殿では、王が臣下の朝礼を受け、公式な国家儀式を行われたり、宴会が催され、また外国の使臣との接見が行われました。宮殿は2階建てで、中をのぞくと1階と2階が吹き抜けになっていて、天井まで見渡すことができます。天井中央の竜の姿や丹青(王宮などの木造建築の壁、柱、天井などにさまざまな文様を鮮やかな色彩で描くこと)など華麗さと雄壮さを兼ね備えた優れた建築物です。勤政殿は1395年(太祖4年)建立されましたが、文禄・慶長の役で焼けてしまい、その後李朝末期の1867年(高宗4年)11月に興宣大院君が再建されました。現在は復元工事中です。
国宝第223号。勤政殿は景福宮の正殿として当時、宮殿の正殿の建物の中では最も大きく、多包様式の建物で現存する最大の木造建築物です。勤政殿では、王が臣下の朝礼を受け、公式な国家儀式を行われたり、宴会が催され、また外国の使臣との接見が行われました。宮殿は2階建てで、中をのぞくと1階と2階が吹き抜けになっていて、天井まで見渡すことができます。天井中央の竜の姿や丹青(王宮などの木造建築の壁、柱、天井などにさまざまな文様を鮮やかな色彩で描くこと)など華麗さと雄壮さを兼ね備えた優れた建築物です。勤政殿は1395年(太祖4年)建立されましたが、文禄・慶長の役で焼けてしまい、その後李朝末期の1867年(高宗4年)11月に興宣大院君が再建されました。現在は復元工事中です。
7.資善堂(チャソンダン・Jaseondang):
東宮の建物の一部として世子(王位を継承する王子のこと)が居住し、王位に就く前に勉強していた場所。北闕図(景福宮の全体配置図)によると、東宮は世子が百官から朝礼を受けていた正堂である継照堂(ケジョダン)、世子と世子嬪(世子の正妃)の住まいとして使われた内堂の丕賢閣(ピヒョンガッ)、世子が先生を招いて勉強をしていた春坊(チュンバン)、世子を護衛する兵士が留まっていた桂坊(ケバン)などで構成されていたそうです。東宮の建物は日本の植民地時代にすべて破壊され、1999年資善堂と丕賢閣のみ復元されました。資善堂の周囲を囲む長い回廊の行閣は、世子の世話をする女官たちが住んでいた場所で、部屋と大きな棟、台所、門などでできています。
東宮の建物の一部として世子(王位を継承する王子のこと)が居住し、王位に就く前に勉強していた場所。北闕図(景福宮の全体配置図)によると、東宮は世子が百官から朝礼を受けていた正堂である継照堂(ケジョダン)、世子と世子嬪(世子の正妃)の住まいとして使われた内堂の丕賢閣(ピヒョンガッ)、世子が先生を招いて勉強をしていた春坊(チュンバン)、世子を護衛する兵士が留まっていた桂坊(ケバン)などで構成されていたそうです。東宮の建物は日本の植民地時代にすべて破壊され、1999年資善堂と丕賢閣のみ復元されました。資善堂の周囲を囲む長い回廊の行閣は、世子の世話をする女官たちが住んでいた場所で、部屋と大きな棟、台所、門などでできています。
8.丕賢閣(ピヒョンガッ・Bihyeongak):
東宮の建物の一部として世子が臣下と国事を議論するときに使用していた場所です。文禄・慶長の役(1592年)の時に焼失したものを1867年(高宗4年)に再建し、この場所で純宗(スンジョン・1874~1926・李朝第27代目王で最後の王)が最後に王子時代を送りました。現在の建物は、日本の植民地時代に破壊されたのを1999年に復元したものです。
東宮の建物の一部として世子が臣下と国事を議論するときに使用していた場所です。文禄・慶長の役(1592年)の時に焼失したものを1867年(高宗4年)に再建し、この場所で純宗(スンジョン・1874~1926・李朝第27代目王で最後の王)が最後に王子時代を送りました。現在の建物は、日本の植民地時代に破壊されたのを1999年に復元したものです。
9.万春殿(マンチュンジョン・Manchunjeon):
国王の臣下と国事を行っていた思政殿の東側にあった便殿(王が居住し、執務を行った宮殿)。李朝時代の国王は便殿で臣下と国事について議論し、聖賢の本を読み、時には臣下と宴会を開いたといいます。1867年(高宗4年)興宣大院君が景福宮を復元する際に建てられましたが、朝鮮戦争(1950年)のときに焼けてしまいました。現在の建物は1988年に昔の姿に再建されたものです。
国王の臣下と国事を行っていた思政殿の東側にあった便殿(王が居住し、執務を行った宮殿)。李朝時代の国王は便殿で臣下と国事について議論し、聖賢の本を読み、時には臣下と宴会を開いたといいます。1867年(高宗4年)興宣大院君が景福宮を復元する際に建てられましたが、朝鮮戦争(1950年)のときに焼けてしまいました。現在の建物は1988年に昔の姿に再建されたものです。
10.思政殿(サジョンジョン・Sajeongjeon):
勤政殿の後方に位置し、国王が御前会議を行い、各種政策を決定するなど臣下と国事を行っていた便殿の建物の中のひとつ。勤政殿が国家の公式儀式が行われる空間に対し、思政殿は王がふだん居住しながら政事を見きわめていた便殿です。思政殿には「国王が深く考え、国を治めなければならない」という意味が込められています。ちなみに思政殿の前には天、地などの千字文の名前が付けられた倉庫があり、ここは活字を保管していた活字倉庫と伝えられていますが、倉庫に番号を付けたものだという説もあります。
勤政殿の後方に位置し、国王が御前会議を行い、各種政策を決定するなど臣下と国事を行っていた便殿の建物の中のひとつ。勤政殿が国家の公式儀式が行われる空間に対し、思政殿は王がふだん居住しながら政事を見きわめていた便殿です。思政殿には「国王が深く考え、国を治めなければならない」という意味が込められています。ちなみに思政殿の前には天、地などの千字文の名前が付けられた倉庫があり、ここは活字を保管していた活字倉庫と伝えられていますが、倉庫に番号を付けたものだという説もあります。
11.千秋殿(チョンチュジョン・Cheonchujeon):
国王が臣下と国事を行っていた思政殿の西側の便殿。この建物は文禄・慶長の役で焼失したのを1865年(高宗2年)に再建したものです。当時、政治・経済・文化の面で優れた業績を残した世宗(セジョン)大王と集賢殿(チピョンジョン・宮中に設置した学問研究機関)の学者がここでさまざまな新しい文物を創り出したそうです!
国王が臣下と国事を行っていた思政殿の西側の便殿。この建物は文禄・慶長の役で焼失したのを1865年(高宗2年)に再建したものです。当時、政治・経済・文化の面で優れた業績を残した世宗(セジョン)大王と集賢殿(チピョンジョン・宮中に設置した学問研究機関)の学者がここでさまざまな新しい文物を創り出したそうです!
12.修政殿(スジョンジョン・Sujeongjeon):
石を使って高くて広い基壇を造り、その上に建てたこの建物は、国王が国事を行っていた便殿と推定されています。もともと世宗大王の時代にハングルが初めて創り出された集賢殿の建物でした。建物自体は文禄・慶長の役に焼失した後、放置されていましたが1867年(高宗4年)に再建され、名前も「修政殿」とされました。現在、修政殿は1つ取り残された形になっていますが、以前は周りに壁の役割をする長い回廊である行閣が200間近くあり、また周辺には国事を行ういくつかの官庁がありました。
石を使って高くて広い基壇を造り、その上に建てたこの建物は、国王が国事を行っていた便殿と推定されています。もともと世宗大王の時代にハングルが初めて創り出された集賢殿の建物でした。建物自体は文禄・慶長の役に焼失した後、放置されていましたが1867年(高宗4年)に再建され、名前も「修政殿」とされました。現在、修政殿は1つ取り残された形になっていますが、以前は周りに壁の役割をする長い回廊である行閣が200間近くあり、また周辺には国事を行ういくつかの官庁がありました。
13.慶会楼(キョンフェル・Gyeonghoeru):
国宝第224号。慶会楼は国王と臣下が参席する重要な宴会や外国使臣を接待する宴会場でしたが、誰もが自由に出入りできる場所ではありませんでした。慶会楼は国王と臣下が出会いを楽しむ場所という意味からつけられた名前で、看板の字は太宗(テジョン・李朝第3代目国王)の王世子だった譲寧大君(ヤンニョンデグン)が書いたものです。池の真ん中には2つの島があり、東側にある四角い島に慶会楼があり、景色もとてもいいところとなっています。1412年(太宗12年)、太宗の命令によって慶会楼は創建されましたが、文禄慶長の役で焼失しました。その後、1867年(高宗4年)、興宣大院君によって現在の姿に再建されました。
国宝第224号。慶会楼は国王と臣下が参席する重要な宴会や外国使臣を接待する宴会場でしたが、誰もが自由に出入りできる場所ではありませんでした。慶会楼は国王と臣下が出会いを楽しむ場所という意味からつけられた名前で、看板の字は太宗(テジョン・李朝第3代目国王)の王世子だった譲寧大君(ヤンニョンデグン)が書いたものです。池の真ん中には2つの島があり、東側にある四角い島に慶会楼があり、景色もとてもいいところとなっています。1412年(太宗12年)、太宗の命令によって慶会楼は創建されましたが、文禄慶長の役で焼失しました。その後、1867年(高宗4年)、興宣大院君によって現在の姿に再建されました。
14.慶成殿(キョンソンジョン・Gyeongseongjeon):
康寧殿の西側にある付属の建物。寝殿である康寧殿(カンニョンジョン)の東西両側に置かれた小寝(小寝殿)のうち、西側の方の小寝殿です。「天地の生と成をお手本とし、政治を明るくする」という意味から延生殿と慶成殿とつけられたそうです。
康寧殿の西側にある付属の建物。寝殿である康寧殿(カンニョンジョン)の東西両側に置かれた小寝(小寝殿)のうち、西側の方の小寝殿です。「天地の生と成をお手本とし、政治を明るくする」という意味から延生殿と慶成殿とつけられたそうです。
15.康寧殿(カンニョンジョン・Gangnyeongjeon):
国王が生活する内殿の中心となる建物で、国王が仕事を終えた後に寝室として使われていた場所。康寧殿は1395年(太祖4年)創建され、国王が健康で安らかであれば百姓も安らかでいられるという意味から康寧殿という名前がつけられたそうです。東西両側に「井」という字の形に9つの部屋を設け、国王はその真ん中の部屋で休み、周りの8つの部屋では女官が宿直していました。また、寝殿の室内には家具を置かなかったそうです。康寧殿の東側には東小寝である延生殿(ヨンセンジョン)、西小寝である慶成殿(キョンソンジョン)があり、また延吉堂(ヨンギルダン)などの付属の建物があります。日本の植民地時代に撤去されましたが、1994年に復元されました。
国王が生活する内殿の中心となる建物で、国王が仕事を終えた後に寝室として使われていた場所。康寧殿は1395年(太祖4年)創建され、国王が健康で安らかであれば百姓も安らかでいられるという意味から康寧殿という名前がつけられたそうです。東西両側に「井」という字の形に9つの部屋を設け、国王はその真ん中の部屋で休み、周りの8つの部屋では女官が宿直していました。また、寝殿の室内には家具を置かなかったそうです。康寧殿の東側には東小寝である延生殿(ヨンセンジョン)、西小寝である慶成殿(キョンソンジョン)があり、また延吉堂(ヨンギルダン)などの付属の建物があります。日本の植民地時代に撤去されましたが、1994年に復元されました。
16.延生殿(ヨンセンジョン・Yeonsaengjeon):
康寧殿の東側にある付属の建物で、寝殿である康寧殿(カンニョンジョン)の東西両側に置かれた小寝(小寝殿)のうち、その東側の方の小寝殿です。「天地の生と成をお手本とし、政治を明るくする」という意味から延生殿と慶成殿とつけられたそうです。
康寧殿の東側にある付属の建物で、寝殿である康寧殿(カンニョンジョン)の東西両側に置かれた小寝(小寝殿)のうち、その東側の方の小寝殿です。「天地の生と成をお手本とし、政治を明るくする」という意味から延生殿と慶成殿とつけられたそうです。
17.交泰殿(キョテジョン・Gyotaejeon):
康寧殿のすぐ後ろにあった王妃の寝室で、中宮殿の建物。王妃の住まいなだけに、景福宮の中で最も華麗に飾られ、表は両儀門(ヤンウィムン)で康寧殿と通じ、裏には人工庭園である峨嵋山(アミサン)が広がっています。王妃はここに居住し、内命府のさまざまな仕事を処理していました。交泰殿の名前は陰陽が調和を成す易経の泰卦(六十四卦のひとつ)からとられた名前と言われています。現在の建物は日本の植民地時代に撤去されたものを1994年に復元したものです。
康寧殿のすぐ後ろにあった王妃の寝室で、中宮殿の建物。王妃の住まいなだけに、景福宮の中で最も華麗に飾られ、表は両儀門(ヤンウィムン)で康寧殿と通じ、裏には人工庭園である峨嵋山(アミサン)が広がっています。王妃はここに居住し、内命府のさまざまな仕事を処理していました。交泰殿の名前は陰陽が調和を成す易経の泰卦(六十四卦のひとつ)からとられた名前と言われています。現在の建物は日本の植民地時代に撤去されたものを1994年に復元したものです。
18.欽慶閣(フンギョンガッ・Heumgyeonggak):
1438年(世宗20年)、蔵英実(科学者)が王命によって建てたもので、時刻と方位、季節を調べることができる化学器具である玉漏機輪を設置していた場所です。玉漏機輪は、いわば自動の水時計。1553年(明宗8年)に焼失、その翌年に再建されましたが、日本の植民地時代に撤去され、現在の建物は1995年に復元したものです。
1438年(世宗20年)、蔵英実(科学者)が王命によって建てたもので、時刻と方位、季節を調べることができる化学器具である玉漏機輪を設置していた場所です。玉漏機輪は、いわば自動の水時計。1553年(明宗8年)に焼失、その翌年に再建されましたが、日本の植民地時代に撤去され、現在の建物は1995年に復元したものです。
20.峨嵋山(アミサン・Tmisan):
人の手によって造られた交泰殿の裏庭です。韓国では昔から庭に花壇を造ったりせず、裏庭のほうが充実していました。峨嵋山は、中宮殿の深い裏庭で、誰もが出入りできるという場所ではありません。傾斜面には長く整えられた石を4段に積んで花壇を造り、段の上には梅、ボタン、ユスラウメ、クロフネツツジなどの花の咲く木や松の木、エノキ、ケヤキなどを植え、園林が造られました。またその間には石鉢、日影台、石蓮池、洗心台(心を洗い清める場所)などの造形物が置かれています。
人の手によって造られた交泰殿の裏庭です。韓国では昔から庭に花壇を造ったりせず、裏庭のほうが充実していました。峨嵋山は、中宮殿の深い裏庭で、誰もが出入りできるという場所ではありません。傾斜面には長く整えられた石を4段に積んで花壇を造り、段の上には梅、ボタン、ユスラウメ、クロフネツツジなどの花の咲く木や松の木、エノキ、ケヤキなどを植え、園林が造られました。またその間には石鉢、日影台、石蓮池、洗心台(心を洗い清める場所)などの造形物が置かれています。
21.慈慶殿(チャギョンジョン・Jakyeongjeon):
宝物第809号。慈慶殿は、景福宮を再建した興宣大院君が交泰殿東側の紫薇堂(チャミダン)の敷地に趙大妃である神貞皇后(李朝第23代国王・翼宗の妃)のために建てた宮殿。慈慶殿は44間の規模で、西側に必要なときだけ火を焚いて煖房できる寝房・福安堂(ブガンダン)と、昼間滞在する中央の慈慶殿、夏は涼しく過ごせるように東南側の楼閣である清燕楼(チョンヨンル)で構成されています。また慈慶殿の裏庭にある壁と西側の花の壁は、李朝時代を代表する美しい壁となっています。現在の建物は1888年(高宗25年)に再建されたものです。
宝物第809号。慈慶殿は、景福宮を再建した興宣大院君が交泰殿東側の紫薇堂(チャミダン)の敷地に趙大妃である神貞皇后(李朝第23代国王・翼宗の妃)のために建てた宮殿。慈慶殿は44間の規模で、西側に必要なときだけ火を焚いて煖房できる寝房・福安堂(ブガンダン)と、昼間滞在する中央の慈慶殿、夏は涼しく過ごせるように東南側の楼閣である清燕楼(チョンヨンル)で構成されています。また慈慶殿の裏庭にある壁と西側の花の壁は、李朝時代を代表する美しい壁となっています。現在の建物は1888年(高宗25年)に再建されたものです。
22.緝敬堂(チッギョンダン・Jipgyeongdang):
交泰殿の裏庭である峨嵋山の北側には嬪宮(王世子の妃)が住む数多くの殿閣がありましたが、日本の植民地時代にほとんどの殿閣と行閣が失われてしまいました。現在、緝敬堂と咸和堂だけが残っています。
交泰殿の裏庭である峨嵋山の北側には嬪宮(王世子の妃)が住む数多くの殿閣がありましたが、日本の植民地時代にほとんどの殿閣と行閣が失われてしまいました。現在、緝敬堂と咸和堂だけが残っています。
23.咸和堂(ハンファダン・Hamhwadang):
交泰殿の裏庭である峨嵋山の北側に位置する嬪宮(王世子の妃)のひとつ。現在残っている東側の緝敬堂と西側の咸和堂は廊下でつながっており、現在は空き地に建物がポツリと建っていますが、もともとは行閣として一郭を成していたひとつの居住空間でした。
交泰殿の裏庭である峨嵋山の北側に位置する嬪宮(王世子の妃)のひとつ。現在残っている東側の緝敬堂と西側の咸和堂は廊下でつながっており、現在は空き地に建物がポツリと建っていますが、もともとは行閣として一郭を成していたひとつの居住空間でした。
24.香遠亭(ヒャンウォンジョン・Hyangwonjeong):
1867年、高宗が乾清宮(コンチョングン)を建てる際にその南側に池を掘り、池の真ん中に島を造ってそこに香遠亭を建て、木で造った陸橋に酔香橋(チィヒャンギョ)という名前をつけ、そこで散歩を楽しんだそうです。香遠亭は後方の北岳山(ブガッサン)と調和した、素晴らしい姿を誇る代表的なあずまやで、オススメスポット。ここは、景福宮の中で最も美しい景色が自慢の場所です!
1867年、高宗が乾清宮(コンチョングン)を建てる際にその南側に池を掘り、池の真ん中に島を造ってそこに香遠亭を建て、木で造った陸橋に酔香橋(チィヒャンギョ)という名前をつけ、そこで散歩を楽しんだそうです。香遠亭は後方の北岳山(ブガッサン)と調和した、素晴らしい姿を誇る代表的なあずまやで、オススメスポット。ここは、景福宮の中で最も美しい景色が自慢の場所です!
25.明成皇后遭難の地(The site where Empress Myeongseong Hwanghu was murdered):
1895年10月8日、李朝最後の王妃である明成皇后が日本人の手によって無惨に殺害された場所。写真の右側にある碑は、1954年6月30日に建てられたもので、「明成皇后遭難之地」という字は、韓国の初代大統領だった李承晩(イ・スンマン)の直筆だそう!
1895年10月8日、李朝最後の王妃である明成皇后が日本人の手によって無惨に殺害された場所。写真の右側にある碑は、1954年6月30日に建てられたもので、「明成皇后遭難之地」という字は、韓国の初代大統領だった李承晩(イ・スンマン)の直筆だそう!
※太元殿(テウォンジョン)エリアに位置する「26.集玉斎(チボッジェ・Jibokjae)」、「27.協吉堂(ヒョッキルダン・Hyepgildaf)」、「28.八隅亭(パルジョン・Palujeong)」、「29.泰元殿(テウォンジョン・Taewongjeon)」は現在工事中のため、観覧することができません。
30.斉寿閤(チェスハッ・Jesuhap):
王と王妃、王室の家族が日常生活をしていた建物のひとつ。宮殿内にある建物ながら14間の規模は宮殿の外に住む一般の両班(ヤンバン)の家よりも小さく、丹青も模様を入れずに朱色のみで色付けした、素朴な建物です。
王と王妃、王室の家族が日常生活をしていた建物のひとつ。宮殿内にある建物ながら14間の規模は宮殿の外に住む一般の両班(ヤンバン)の家よりも小さく、丹青も模様を入れずに朱色のみで色付けした、素朴な建物です。
以上、景福宮についてお伝えしました。いかがでしたか?少しでもお役に立ったでしょうか?「明成皇后遭難の地」まで回ったら、景福宮の見物はすべて終わり!30番の斉寿閤は、出ていく途中に観覧できます。景福宮はゆっくり休みながら見て回るとすると、だいたい1時間あれば余裕のコース。(^-^)景福宮のすべてを見終わったら、最も美しい景色が自慢の香遠亭のベンチに座って、しばし休息をとってみては?遠くは南山ソウルタワーも見えますよ!(^-^)ソウルに来たら、景福宮にぜひ一度足を運んでみてください!それでは、香遠亭で景福宮の歴史についてしばし思いにふけるソウルナビがお伝えしました。
記事登録日:2003-05-09
ユーザーアルバム
基本情報
| 住所 | ソウル市 鍾路区(チョンノグ)世宗路(セジョンノ)1-56 |
|---|---|
| 住所(韓国語) | 서울시 종로구 세종로 1번지 56 |
| 電話番号 | 02-732-1931 |
| 営業時間 | <3-10月> 9:00-18:00 <11-2月> 9:00-17:00 ※入場券は観覧終了1時間前まで販売。 ※状況により、観覧時間の短縮・調整の可能性あり。<2009.2.16更新> |
| 休業日 | 毎週火曜日(※祝日と重なった場合は開園) ※2012年旧正月休みなし。 |
| 料金 | 入場料−3,000ウォン(19〜64歳)/1,500ウォン(7〜18歳) ※6歳以下、65歳以上無料 ☆1枚で民俗博物館、景福宮、古宮博物館を観覧できます(2006年2月より、ただし月曜日は古宮博物館が定休日のため観覧不可、他の曜日に振替利用可)<2006.3.2> ☆当日内有効(再入場可)<2006.3.24> <4大宮と宗廟の統合観覧制> 1枚のチケットで5箇所(景福宮、昌徳宮(後苑含む)、昌慶宮、徳寿宮、宗廟)を見学することができる。10,000ウォン(有効期限:1ヶ月) ※1箇所でも使用した場合は払い戻し不可。<2010.6.1> |
| ホームページ | www.royalpalace.go.kr/ (韓国語、英語) |
| その他の情報 | ※史跡第117号
※太元殿、乾清宮、咸和堂、絹敬堂は一般観覧が可能になりました。<2009.2.16> <日本語ガイド> 定休日を除く毎日10:00、12:30、14:30<2008.4.14更新> 所要時間1時間~1時間半 スタート場所:興礼門内側 景福宮案内室前 案内電話番号:02-723-4283 ※10~30名の団体の案内は要予約(学生および30名以上の案内は不可<20008.8.4>) ※秋夕の自由観覧実施時はガイドがありません。 <韓国語ガイド> (月、水~土)11:00/13:00/14:00/15:00/16:00(冬期15:30) (日曜日)12:20/13:30/14:30(追加案内) ※太元殿、乾清宮、咸和堂、絹敬堂案内(一般案内はなし) <英語ガイド> (定休日を除く毎日)11:00/13:30/15:30<2008.7.24追加> <中国語ガイド> (定休日を除く毎日)10:30/13:00/15:00<2010.11.9追加> <太元殿、乾清宮一円案内> 韓国語:11:00、14:00、16:00(外国語案内なし) スタート場所:乾清宮前<2009.8.10> <朝鮮時代守門将交代儀式> 場所:興礼門前広場および一帯 時間:10:00~15:00 ※毎時定刻に略式で開催※約10分。<2009.8.25> ※守門将交代後残りの時間は直立勤務。 ※火曜日休 <`王家の散策`再現行事> 王と王妃、尙宮、宮女、護衛軍士など、王室の家族が宮内を散歩する様子を再現するイベント。 場所:慶会樓-勤政殿-交泰殿-香遠亭-慶会樓一帯 開催期間:2010年4~11月(ただし、7~8月を除く) 日時:毎日(※火曜、日曜を除く)15:00~16:00<2010.6.10> 宮中<日日朝会>再現(常参儀) 日 時:2010年4、5、6、9、10月(毎日11:00/火曜日、日曜日を除く)<2010.6.10> 場 所:慶会樓-思政殿-康寧殿-思政殿-慶会樓 内 容:国王、門武官等が参加する宮中の日日朝会の再現 出演人員:30名(国王、門武官、護衛武官、偽装手など) 王室服飾体験 期間:2010年1~12月(※7、8月を除く) 日時:毎日(※火曜日を除く)10:00~16:00 場 所:慶会樓前 内 容:宮中服飾体験及び記念撮影(期間中主題別に服飾選定) 利用方法:景福宮観覧客を対象に無料撮影 ※日曜日は上記時間以外に「わたしたちの宮殿道案内」イベントにて13:00/13:30/14:00/14:30/15:00に韓国語追加案内あり<2009.2.16更新> ※10名以上の団体の案内は要予約 *英語、中国語、韓国語案内時間を更新しました。 <2008.7.23> <慶会楼特別観覧>(2010年8月15日~10月)外国人の参加方法について 2010年8月15日から10月の末まで実施される慶会楼の特別観覧において、外国人の参加条件、予約方法は以下のようになります。 ・観覧時間: 毎日午前11:00~のみ(火曜日は景福宮休館) ・観覧形式: 自由観覧(案内員なし) ・申込方法: 景福宮案内所(02-723-4283)へ電話予約。観覧日の8日前まで。(※英語、日本語、中国語可能) ※10時、14時、16時に実施される韓国語案内員の引率による観覧へは、外国人は参加できないそうです。<2010.8.11> ※外国人登録番号を持つ外国人の場合も、インターネットHPからの予約、また10時、14時、16時に実施される韓国語案内員の引率による観覧はできないそうです。<2010.8.16> ※外国人の参加できる午前11時からの自由観覧では、乾清宮の見学はできません。(慶会楼のみ。)<2010.8.19> ※11月1日~内部殿閣(康寧殿、交泰殿、慶会楼、乾清宮)開放中止<2010.11.6> ※2012年旧正月の休業情報を更新しました。<2012.1.16> |
| 行き方 | 1)地下鉄3号線キョンボックン(景福宮・Gyeongbokgung・327)駅5番出口を出るとすぐそこに景福宮があります。 2)地下鉄3号線アングッ(安国・Anguk・328)駅1番出口を出てまっすぐ。古宮の塀沿いに右へ行くと入口がある。徒歩約10分。 |
上記の記事は取材時点の情報を元に作成しています。スポット(お店)の都合や現地事情により、現在とは記事の内容が異なる可能性がありますので、ご了承ください。
スポット登録日:2000-05-14
スポット更新日:2003-05-09











































































国立古宮博物館